自分の本質と繋がる

生まれ持った素質を生かす

【想い】  本質と繋がる  

何を人生の軸とするのか、
自分は何者であるのか。
かつての自分から、今の自分へと繋がる「想い」


もの心ついたときから、ずっと抱えている「想い」は、
かつての自分から、今の自分へと繋がる
「自分の軸」とも言えます。

これまでの自分が、
「何を感じて生きてきたのか」を掘り下げていくと、
「生まれてきた意味」とも言える
「人にしてあげたいこと」が見つかります。



「自分探し」の先に見つけた「答え」

私がカウンセリングに出会ったきっかけは「自分探し」でした。

当時3歳になる息子が、言葉をしゃべり始めた頃、
「私は父親として息子に胸を張って、自分の仕事を話せるのだろうか」
そんな疑問を感じはじめ、追い詰められるように
「自分自身がこの人生の中で何をしたいのか」を、考えはじめました。

それまで、漠然と考えていた、
「このままで、いいのだろうか」という感情が、
息子の成長を目の当たりにして表面化したのです。

「自分の生きる目的は何なのだろう」
「このまま自分の人生が終わってしまうのは嫌だ」

そんな想いにかられて、あせりを感じ、
それまで、一切手を出すことのなかった自己啓発関係の本を読んでみたり、
講演会やセミナーなどにも参加するようになりました。

しかし、おぼろげながら自分の好きなこと、 やってみたいことが見え始めても、
何をするにも「怖い」という感情が、常につきまとう感じで、
肝心な一歩が踏み出せず、うまく前に進むことができない

そして、行動できない自分に対して自己嫌悪を感じて落ち込む・・・
そんな毎日の繰り返しでした。



自分探しは、自分の「居場所探し」

どうしても前に進めない閉塞感の中、私は心理カウンセリングに出会いました。
その時は、あまりにも自分のことを「ふがいない」と感じ、
そんな「自分を変えたい」という思いから、カウンセリングを受けたのです。

私の「自分探し」は、「自分の居場所探し」だったと、今では思います。

あの頃の私は、
「今の自分」も「これまでの自分」も否定して、それこそ「なかったこと」にして、
「新しい自分」になれる「特別な何か」を求めていたのです。

それが、安心して生きられる場所を得られる方法だと信じていました。

自分探しや、天命、ライフワークと呼ばれる天職を見つけることは、
「自分を生かす」という意味でも、決して間違いではないはずです。

ただ、自分探しが「今いる苦しい場所から抜け出す方法」になっている限り、
「なぜ、そんな苦しい場所にいるのか」
「そこで感じている気持ちに、どんな意味があるのか」
心の深いところで、何を意図して「そんな生き方をしているのか」を知らないまま、
これまでの自分を切り捨てるために、
ここではない、どこか他の場所を探すことになってしまいます。

見たくない自分から目をそらして、
人に誇れる特別な何かを身につけようとした。
そうやって無意識に「自分以外の誰か」になろうと頑張っていた・・・だから、
当然のように行き詰まってしまったのです。



人生を生きることは、表現すること

人それぞれの人生、生き方には、
「信じていること」「考え方」「物事の捉え方」「世界観」が、
特に意識しなくても、にじみ出ているものです。

それは「生き方」を通して、自分の中の「想い」を表現しているとも言えます。

「自分を苦しめる生き方」を、何とか変えようとしても、
どうしても止められないとき、同じことを繰り返してしまうとき、
その生き方、やり方を通して何を訴えているのか、
「何をわかって欲しくて、そんなことをするのか」を知る必要があります。

頑なになって、自分の殻の中にこもり、
まわりからは心を閉ざしているようにしか見えない行為でも、
心の奥では「何かを決めて」無意識の意図があって、そうしている。

「これまでのやり方」のおかげで、
うまくいったことも、大切なものを守れたことも、たくさん経験してきた。
苦しいのに、手放せない生き方の奥には、
自分が「この世界で求めているもの」が一緒に埋まっています。

でも、いつの頃からか、苦しさを感じるようになったのは、
今の自分には合わなくなってしまったから。それは、見方を変えれば、
もともと無理をしていた限界がきてしまったとも言えるのです。

うまくいかなかったり、行き詰まって流れが悪いとき、
表面的な方法を変えようとしたり、
目に見える問題ばかりを何とかしようとするのではなく、
その奥にある意図「自分の本質」から外れていることに気づくときだと言えます。

思い通りにならない現実を通して、
自分の求めている世界を思い出そうとしているとしたら、
問題や悩みが通過点だとしたら、
「なぜ、そんなことをしているのか」
より深く、自分の想い「何を求めて生きているのか」を知ることで、
本来の自分の生かし方がわかるのです。



自分は何者であるのか

同じものを見ても、同じ体験をしたとしても、
「どう見えるのか」「何を感じるのか」「どんな解釈をするのか」は、
人それぞれ違います。

その体験、環境の中で何を感じたのか
それこそが、「唯一無二の素質・才能」に繋がる感覚であり、
生まれから、これまで、ずっと自分の中に「ある」ものなのです。

物事に対して感じる気持ちや、
良い悪いの判断をすること、
何が足りていないと思うのか、
何を優先すべきと感じるのか、
目の前の出来事に対して「感じていること」は、
自分の信じる「価値観」や、大切にしている「信念」となります。

そして、自分の中の本質や才能のある場所には、
「大切な世界観」があるからこそ感じる「負の感情」心の痛みも一緒にあるはずです。

物事を解釈し、
良い悪いを決めつけてしまうのも

どうしても許せないことや、
受け入れられない人がいるのも

人に知られたくない、
隠しておきたい自分がいるのも

すべて自分の本質と繋がる世界観や価値観、
「こうあるべき」という信念があるから、
物事を裁くように、無意識に判断してしまうのです。

気がつかないうちに身に付いた思い込みや、自分を縛る制限、
なかなか消えてくれない苦い記憶でさえも、
どうしても無視できない「想い」が、心の根っこにあるから感じるものであり、
心が求めている世界の価値を、自分に教えてくれる存在と言えます。



「自分のため」と「人のため」

心から「つくりたい世界」、生き方を通して表現している「想い」は、
自分以外の人にとっても価値があってほしいものです。

人は、他の人との繋がりの中で生きています。誰でも、
自分以外の誰かを幸せしてあげられると、より幸せが深まります。

ただ、「人の役に立ちたい」「何かをしてあげたい」という気持ちには、
人の優しさ、素晴らしさと、
自分を見失ってしまう落とし穴とがあります。

自分が「誰かから必要とされている」と感じられることは、
「ここに居てもいい」という安心感を得られます。
ですが、他人からの評価ばかりが目的になると、
不安や怖さは、かえって大きくなるのです。

ただ、したいからやるのか
人に認められたくて、しているのか

自分の「好きなこと」「やりたいこと」を使って
誰かに認められようとしている時は、心から満たされることは難しいはずです。

「役に立つこと」「認められること」が、
自分の欠乏感や不安を埋めるためになってしまうと、
どうしても苦しくなってしまい、受け取る相手も安心できません。

「認められるためにやる」よりも、
自然に「ただ、したいこと」だからする。
それが相手にとっても負担にならず、何より「信用」してもらえるのです。

「人を助けてあげたい」という気持ちですら、
自分の中に「認められたい」「不安をなくしたい」などの未消化な傷があると、
罪悪感や劣等感、無価値感を満たすためになり、お互いに依存してしまいます。

自分の想い「してあげたいこと」の価値を、
(他人の評価に左右されるのではなく)誰よりも自分が「わかっていること」
それが自然で無理のない、心地よい関係をつくるのです。



自分の持っている素質と才能

誰にでも「人に何かをしてあげる」素質、才能があります。ただ、
他の人にはない、自分の才能や強みは自分では良くわからないものです。

「心からそうしたいのか」「それが好きなのか」は、自分にしかわかりませんが、
「何を人に与えているのか」「どんなところが喜ばれるのか」は、
「してもらう」側の相手の方が、よく知っているものです。

自分が苦もなく、自然にできて
他人が思いもかけず、喜んでくれること、
それが才能なのです。

「誰かを喜ばせるために、自分を置き去りにする」ことと、
「誰にも理解されなくても、自分の喜びだけに没頭してまう」こと、
どちらかに偏っていると流れが悪くなり、うまく伝わりません。

「自己犠牲」と「自分中心」
そのどちらか、今から「やろう」としたとき抵抗を感じる方が、
これまで「やってこなかったこと」であり、
バランスをとるために、これから体験すべきことと言えます。

両方を経験して、はじめて、
「自分のためが誰かのためにもなり、誰かのためが自分の喜びにもなる」
ようやく、その真ん中の感覚がわかるのです。



自分の中にある「想い」を、誰かに届ける

幼い頃は誰にでも、ただ、好きだから、
人から認められなくても、それでも、やっていたことがあったはずです。

ですが、純粋な想いは、あまりに無防備なため、
自分でも気がつかないうちに傷つけられ、心の奥にしまい込まれてしまいます。

「想い」がうまく届かなくて、軽く扱われて、誤解されて、
どれだけの痛みを負ったのか知らないまま、
怖れや傷となり、フタをして、やがて「わからなく」なってしまう。

挫折や失敗の体験は、純粋な想いに近ければ近いほど、
繊細で深い痛みになって、無意識に心の奥へ隠してしまいます。

自分の軸である「想い」「人にしてあげたいこと」を、掘り起こすことは、
「また、傷つく」覚悟を試されることにもなります。

フタをした「かつての痛み」にも、向き合うことになるのです。

気がつかないうちに負っていた心の傷、自分を責めていた罪悪感に気づき、
その傷を癒すことで、人生を通して本当に表現したいことは見えてきます。

自分と向き合うことは、
自分が「してきたこと」の奥にある想いを見つけ、受け入れていくことでもあるのです。

そもそも、
「なぜ、それをしていたのか」「何をしてあげたかったのか」を掘り下げていくと、
必ず、みんなを幸せにするための「純粋な想い」が見えてきます。


心の奥に秘めた「想い」こそ、唯一無二の才能であり、
ずっと、自分の中に「ある」もの
なのです。


才能は「自分のもの」として自覚しない限り、
磨く機会を失うばかりか、才能の存在が周囲とのズレが生み、
悪循環や苦しみの原因にもなります。

生まれ持った才能の価値を自分自身が「受け入れる」ことで、
自然な状態になるのです。

そのとき必要なことは、それを、
「してあげたいと思えた自分」を、そのまま認めることだけです。
「想い」の存在そのものに、すでに価値はあるのです。



自分をここまで連れてきてくれた能力・才能

もし、自分が恵まれた環境で育ったと思えるのなら、
最も優れた能力「才能」を、のびのびと伸ばせたはずですし、

逆に、苦しく、つらい中で生きてきたと感じるのなら、
そこで「生き延びるために」自分が頼りにした能力も「才能」と呼べるはずです。

生まれ持った素質「才能」は、いつも「自分の中」にあります。

自分を「ここではない、どこか」へ運んでくれる特別な才能を求めてしまうと、
自分に足らない何かを探し続けて、結局、自分から離れてしまいます。

「どうしたらいいんだろう」を探しているときは、いつも、
人に認められるための答え「他人の軸」になっています。

自分の能力を疑い、自分にも、まわりにも、心を閉ざしているのです。

自分への問いかけを、自分は「どうしたいんだろう」に変えることで、
いつでも、自分の軸に戻ってこられます。

壁にぶつかり、行き詰まるたびに、心の奥の「想い」を掘り下げ、
「みんなに見せてあげたい世界」を見つけて「自分らしく」表現すること、
それが結果として、誰かの「希望」になるのです。

いつでも立ち戻るのは、自分。

自分のすべてを生かすためにも、
硬く閉ざしていた気持ちを緩めて、心をひらくこと。
素の自分を見せることを怖がらないこと。
自分の想いを「そのまま」表に出すことを許すこと。

自分の本質である「想い」を、飾ることなく、素直に表現する姿にこそ、
最も人を惹き付ける魅力があるはずです。


「自分らしさを隠さないこと」で、素直な「本当の想い」が伝わるのです。


自分の人生に「ない」ものを求めて、
嘆いていたときも、

自分を信じられなくなって、
人生の流れすら悪くなったときも、

自分の素の姿に不安を感じて、
隠さずにはいられなかったときも、


そんな苦しいとき、自分を受け入れられないときですら、
自分の持っている「本質」「能力」「才能」を使って、
歪んだ形で自分を責め、偽り、それこそ「自分らしく歪んでみせていた」と言えます。

「自分らしさ」も、「想い」も、決して消えない。だから、自分が生かしてあげる。

自分の軸となる、生まれてからずっと抱えていた「想い」を知る。
それは、
かつて、あきらめようとした世界を、もう一度、一生をかけて取りもどすことであり、
純粋な存在だった頃の「想いと一緒にいた姿」に、還っていくことなのです。




人は、生き方を通して「想い」を表現している。


心からやりたいことは、
自分を救ってくれるから
価値があるのではなく、

どんな努力でも、
ずっと追いかける価値があって、

そこに向かう喜びを感じ続けられるから、
価値がある。


生まれ持った才能を生かしてあげる。

自分が「持っているもの」と、
自分が「憧れるもの」のは違う。
だけど、
心の底で望んでいる世界観は同じ
「人にしてあげたいこと」としての根っこは同じ。

もの心ついたときから、ずっと一緒に居て、
自分が存在している限り消えない「想い」

「想い」は、
喜びや充実感を教えてくれるだけでなく、
「想い」があるからこそ、
心の葛藤や向き合うべきことも増える。

人の「したこと」は、表面で何をしたのかよりも、
心の深いところで意図していることが、
隠しても、相手には伝わり、広がり、大きくなって、
やがて、自分のところに還ってくる。

「認められたい」が、始まりならば、
認められなくては満たされない世界が続く。

「喜んで欲しい」が、始まりならば、
人を喜ばせた笑顔がめぐり、還ってくる。

その結果は、どれも「間違い」ではなく、
自分らしく生きているか、自分の軸からズレていないか、

「自分はそれでいいのか」が、
目に見える形として現れるだけ。

自分の軸である「想い」は、
一生をかけて磨いていくもの。
だから、一歩ずつ自分のものにしていけばいい。

自分の内側にある「想い」の価値を認めること
自分の外側にある良さそうな方法に
心を奪われすぎないこと

ブレたのなら、
他人の軸になっていることに気づいたのなら、
その時は、
自分と向き合って癒やすしかない。

自分が癒されたとき、
「なぜ、そこにいたのか」これまでの意味がわかる。
経験が糧になる。


「これが自分なんだ」という覚悟。
ある種のあきらめ。
自分以外の誰かには、なれないのだから。

誰にも認められなかったとしても
「したい」と思ってしまうこと

自分の歩みを振り返ったとき、
気づくと、ずっと「していたこと」

自分以外の理由、
外から持ってきた価値は、
純粋だったはずの「想い」の存在価値が
揺らぐ原因にもなってしまう。


自分が自分のことを信じている分だけ、
人の幸せも信じられる。

かつて、自分の存在よりも「大切な人」に、
届いて欲しくて、わかって欲しかった「想い」

大切な想いがあるせいで生まれた痛みや、
挫折であっても、
その経験を、深く、掘り下げていくと、

自分の中に、ただ「想い」が「ある」、それだけの価値にたどり着く。

自分の軸の存在に、自分自身が救われたとき、
その想いは「心から人にしてあげたいこと」に、
自然に変わっていく。

生まれた環境の中で、ただ純粋に、
まっすぐに生きてきたときも

気がつかないうちに、ズレが生まれ、
苦しみの中もがいていたときも

心を閉ざし、すねるようにしか、
自分を表現できなかったときも


自分の中にある「想い」は、
ずっと握り締めているはずなのに、
信じられなくて、見失って、でも、一緒に生きてきた。

心の奥の「罪悪感」「無力感」「無価値観」
痛みや傷を埋めるためではなく、

心から湧き上がる「想い」が「ある」ことを、
ただ伝えたくて、伝える。

思うままに表現する。
それだけで、満たされてしまう「想い」






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