身に起こる出来事は、
心と、どのように繋がっているのか
自分の内側を知る「道具」
受け入れられない、目の前の現実を、
どうしても許せない、嫌いな相手を、
他人に見られたくない、ダメな自分を、
「変えよう」として、
どんなに、
知識や情報を集めても、
思うような変化は、なかなか得られないものです。
望まない出来事や、不快な現実を「思い通りに」したくて、
自分の外側に意識を向け、「どうにかして変える方法」を探し続け、
「行き詰まった」のなら、
悩みを生み出した「もと」にある、自分の内側に目を向けてみる。
葛藤を抱えて、混乱している自分の内側に「何があるのか」を整理することで、
外側の問題が「なぜ、自分の身に起きたのか」が、わかります。
「気づき」によって、人は変わります。
自分が知らなかった自分を知り、
本当に受け入れたとき、変化は起こるのです。
自分が「自分自身や、まわりの世界を、どう見ているのか」
日々の出来事の中で「何を感じて、心の中でどんな体験をしているのか」
その行動をするのは、自分の内側に「何が、あるからなのか」
心の奥で、本心では「何を怖れているのか」
どうしても、あきれめきれない「本当の願い」は、何なのか・・・
心理学や、心についての知識は、
自分の内側に意識を向ける「きっかけ」となり、
無意識の領域を観るための「道具」として、活用することができます。
「悩んでいる自分」の内側の世界が「どうなっているのか」を理解し、
心から納得したとき、
問題や悩みにしか思えなかった「目の前の現実の見え方」は変わります。
自分の内側に「ある」
無自覚に自分を動かしていた「何か」に気づいていくことで、
現実は自然に変わっていくのです。
カウンセリングの効果を実生活に役立てていただくため、
心理学の知識をまとめました。
カウンセリングを受けるつもりのない方にとっても、
普段あまり意識することのない「心のこと」を知ることは、
生活の中で生まれるストレスを減らすという意味でも助けになるはずです。
*番号順に読む必要はありませんので、気になる項目から、お読みください。
① 自分を観る力 【メタ認知】
「メタ」という言葉は、「上の」「高次の」「超〇〇」という意味で使われます。
そして、自分の外側にある対象(人・もの・現象など)を知覚した上で、
「それが何であるか」を判断したり、解釈したりする過程のことを「認知」と言います。
つまり、メタ認知とは、
自らの認知(考える・感じる・記憶する・判断するなど)を
認知すること(上から俯瞰して見ること)であり、
「自分の認知活動を客観的に把握できる能力」を意味します。
メタ認知は、
「自分そのものを、離れたところから見ている感覚」に対して、
アメリカの心理学者であるジョン・H・フラベルが定義付けた概念です。
現在進行中の自分の思考や行動そのものを、対象化して「認識すること」で、
客観的な視点で自分を理解できるため、
何かを実行している自分に対して頭の中で働く「もう一人の自分」と表現されたり、
「認知についての認知」と言われたりします。
「自分を客観視する」という行為は、他の動物にはない、
人間(など、ごく一部の生物)のみに備わった能力と言われています。
「水槽で飼われている魚」を例にして考えると、
魚が、エサとなる小さなエビを追いかけているとき、
その姿を俯瞰した視点で眺めるイメージを持ったり、
狩りに失敗した場面を想像して不安になったりしないはずです。
魚は、(人間のように)考えすぎて、悩むこともないので、 狭い場所に閉じ込められている状況を、他の生き物たちと比べてみて、 水槽で飼われている魚も、私たち人間も、命ある生き物は、 「自分のいる世界」が「どんな場所なのか」は、 メタ認知は、客観的に「自分を観る」ことを可能にしてくれるため、 自分が無意識にしている行動や、思い込んでいる信念、 そして、自分のいる世界の本当の「真実」を明らかにすることができます。 もしも、 世界のすべてだと信じていた水槽の中で、何が起こっていたのかを見ることができ、 自分自身が「何を思って」「どんな振る舞いをしていたのか」を知ることになるはずです。 高度な知性と、発達した文明を持つ私たち人間は、 実際は、命が求めるままに、自然体で生きているとは言い難いものです。 いつでも、 将来、大変なことが起こらないように、 「世界を狭める枠(= 魚にとっての水槽)」となるのです。 ですが、 「自分がどんな言葉を使っているのか」 自分を観る視点「メタ認知」を活用することで、 また、自分の「行動」や「考え方」を客観視するときには、 俯瞰した視点から自分を観ている「もう一人の自分」が、 自分自身や、自分を取り巻く世界を、 自分が「どんな場所にいて」「どう生きようとしているのか」を決定づける 「自分を観る」という視点を活用するのは、 自分への信頼感を取りもどし、 「自分が自分に」してあげる「自己理解」は、安心感を生み出し、 客観的な視点で自分を観て、自分を知ることで、 俯瞰した視点で自分を見つめ直し、自分を理解できたとき、人は同時に、 これまで「ある」ことすら見失っていた「枠の外の選択肢」にも、気づいているはずです。 メタ認知を活用し「自分を観ること」で、私たちは、 本来の自分らしい欲求「自分の内側にある真実」に気づくことにもなります。 自分から離れて、自分を明らかにすることで、 見えていなかった本当に望む生き方を「選択し直すこと」ができるのです。
その境遇を嘆いたりすることもありません。
目の前の「現実のすべて」だと「思い込んでいる世界」に溶け込んで、
頭の中の認知と一体化して生きていると言えます。
「無意識の認知」によって決められているのです。
水槽の魚が「限られた狭い世界(水槽)」から出て、
外側から自身の姿を眺められたとしたら、
他のどの生物よりも安全に、制限なく生きていけるはずですが、
「身のまわりに起こることをコントロールすること」にばかり気を取られ、
「対処方法を考えること」をやめられない人間にとって、
過去の間違いを繰り返さないように、
今、体験している不愉快な出来事を遠ざけるために、
無意識に身につけてきた「思い込み」や「信念」が、自分自身の行動を制限し、
そんな「枠に囚われた自分の姿」を「俯瞰的に観る能力」
(水槽の魚が、外から自分のいる世界を眺める能力)を、
私たちは、みんな持っているのです。
「自分は何をしているのか」
「自分はどう考えているのか」
自分自身が何を思ってそうしているのか
「内側で起こっていること」を理解することができます。
自分を「どんな目線で観ているか」に意識を向けることも大切になります。
「肯定して理解しているのか」「否定的な視線を送っているのか」といった
セルフイメージや無意識に持っている世界観についての認知「認知についての認知」は、
大きな影響力を持ちます。
自分の行動を監視したり、自分を矯正するためでなく、
心の奥の本心に繋がる「大切な想い」を思い出すためです。
外側で起こる問題も解決に向かっていきます。
「無意識の思い込み」「無自覚な認知の枠」の中で、
振り回されることがなくなっていくのです。
思い込みに縛られることのない「世界の真実の姿」を知るとともに、
(厳しく見張っている、優しく理解している、なんだか冷めた目で見ている、など)
(奪い合いの世界で、損をしないように、緊張して生きている、など)
(お互いを思いやりながら、安心して、自分らしく生きていきたい、など)
② 感情、思考、行動のバランス 【感情の責任者】
私たちの普段の行動
「(いつも)何をしているのか」「どんな振る舞いをしているのか」は、
頭で考えている思考(考え方・価値観)
「何をするべきと考えているのか」「してはいけないことは何か」が
基準になっています。
それは、
思考や考え方によって行動が生み出されているとも、考えられます。
例えば「学校に行くという行動」に対しては、
「友達に会える」「関心のあることが学べる」
「ちゃんと行かないと、まわりから取り残される」
「親に心配をかけたくない」
そんな期待や、きっと〇〇なはず、という考え方が根底にあります。
人は、
思考の中で期待している結果を得るために行動していると言えるのです。
さらに、思考のつくられる基準となるのが感情です。
本来は、
感情を満たすために行動をしているはずであり、
行動したことによって、何らかの感情を得ているのです。
もし、感情をどこかに忘れてしまったような行動、
盲目的に「正しい」「当たり前」「そうするべき」という
思考ばかりにとらわれた行動をしていのなら、
納得のできる満足感は、なかなか得られないはずです。
「思うようにいかない」「行き詰まってしまう」そんな状態のときほど、
その思考や行動によって、
「本当に求めていたのは何か」を思い出す必要があると言えます。
子供の頃の行動は、
今よりも、感情がストレートに出ていたはずです。
誰にでも、感情に正直に生きていた頃はあるのです。
「欲しいもの」や「やりたいこと」があると、
その感情が直接、行動に結びついているのが子供です。
だからこそ、「満足感」が得やすいのです。
ただし、感情に素直な行動は、
失敗や挫折などの「痛い思い」をすることも多くなってしまいます。
人は、つらいことや苦しいことがあると、
これ以上つらい思いをしたくないので、感情を遠ざけようとします。
失敗などの経験から学習し、この先「痛い思い」をしないように、
「こうしてはいけない」「こうするべき」などの
様々な思考がつくられ、感情が傷つかないように守ろうとするのです。
また、親が子供に対して行う「しつけ」も、
子供が危ない目に合わないように、
将来、社会に出て困らないように、
「してはいけないこと」や、
「社会で守るべきルール」などを、
親にとって「正しいと信じている価値観」に従って教えた結果、
様々な制限となる思考を生み出す原因の一つとなってしまいます。
ネガティブな感情や、心の痛みを避けるために
「感じること」を抑えてしまうと、喜びや満足感も感じにくくなってしまいます。
本来は、感情が傷つかないように守るための思考が、
結果として、感情を感じることを遠ざけてしまう。
そして、凝り固まった思考により行動が制限されてしまい、
なかなか感情が満たされない。
そんな悪循環が、いつの間にか生まれることになるのです。
無自覚に感情を抑え込んでしまって、
思考ばかりが優位になってしまうと、
思い通りにならなかったとき、どうしても、
その責任を、自分以外の誰か(何か)のせいにしたくなり、
結果として、自分から離れてしまいます。
「うまくいかなかった」「失敗してしまった」そんなときこそ、
自分の内側のより深いところに意識を向けることで、
本当の望みを見つけられます。
もし、「やり方」が合っていなかったとしたら、
「行動」を修正し、他の方法を試すなどして、やり直せばいいはずですし、
いろいろな方法を試しているはずなのに、行き詰まるのなら、
「考え方」や「取り組む姿勢」を見直すことで、
違う角度から挑戦するための糸口が、見つかるはずです。
ですが、「感情」にフタをして「なかったこと」にしようとしたり、
他人に認められるような動機に「変えよう」として、
自分が「なぜ、そうしたいのか」に繋がる大切な気持ちを切り離してしまうと、
望むような結果を得られなかったとき、
自分が立ち戻るべき場所を見失い、行き詰まることになります。
たとえ、感情を抑えることで、
表向きには「うまくいった」としても、
そこに、本当の意味での安心感や満足感はないはずです。
本心を無視した思考や、気持ちにフタをした行動の先にあるのは、
感情から切り離された結果と、目を背けたまま取り残された感情です。
行動する理由の根っこが、不安や怖れを「避けるため」だったとしたら、
どんな結果になっても、ネガティブな感情はなくならず、
本当に欲しかったはずの感情は、いつまでも手に入りません。
自分が「本当はどうしたいのか」「何を望んでいるのか」を見失わないためにも、
「自分の気持ちを大切にしているのか」
「気がつかないうちに我慢をしていないか」
自分の気持ち「感情」が、
「自分の軸」として、心の中心に「ある」ことを、
「感情の責任者」である自分自身が、確かに「感じている」必要があるのです。
- あなたが、あまり感じたくない感情や、普段、抑えている感情はありますか?
(怒り、あきらめ、悲しみ、または無邪気に喜ぶこと、など) - つい避けてしまう感情を以前は感じてましたか? また、それはいつ頃ですか? 「その頃」の自分の姿を思い出せますか?
- 「何かを決める」とき、どんな声が頭の奥から聞こえますか?
その声は何と言っていますか? それは、だれの声ですか? 本当に自分の声ですか? - 不満なとき、ついつい思ってしまうことはありますか?
(せっかく〇〇したのに、いつも私ばっかり、こんなはずじゃないのに、など)
③ 普段意識している領域と、無意識の領域 【潜在意識・顕在意識】
心(意識)には、自分で意識できる領域と自分では意識できない領域があります。
普段何かを考えたり、物事を判断したり、何かを選択したりする時に用いる
自分で意識できる領域を顕在意識と呼びます。
また、自分では意識することのない「無意識の領域」は
潜在意識と呼ばれています。
一般的に、顕在意識として使っている領域は
意識全体の2~5%にすぎないと言われているため、
私たちの行動や考え方、感情は、
95%以上を占める無意識の世界によってに影響を受けていることになります。
顕在意識の主な役割には、
「思考する」「判断する」「選ぶ」「意識する」などがあります。
「頭で考える領域」なので「認識しやすい領域」と言えます。
また、「無意識の領域」である潜在意識は「機能する領域」とも呼ばれ、
「自分を守る」ことを目的とする「保護機能」を担っています。
潜在意識は「機能」として備わっているので、「考えること」がなく、
否定(〇〇ではない)を理解しない。
時間や場所の制限がない。
すべての出来事を「今、起ったこと」として反応するなどの特徴があり、
意識されることなく「自動的に」作用し続けています。
普段は意識されることのない、潜在意識(無意識の領域)は、
静かな場所で、心を落ち着けて、「何も考えないこと」を試してみることで認識できます。
何も考えないこと、頭の中を空っぽにすることが、いかに難しいかが確認でき、
頭の中では、絶えず無意識の会話がされていることに気づけるはずです。
人は無意識に、まるで、ひとり言のように「いろいろなこと」を考えていて、
その数は一日に6万回にもなると言われています。
過去の終わってしまったことを懐かしんだり、後悔したり、
未来のことを想像して期待したり、不安や怖れを感じることを、
「無意識に」し続けているのです。
また、潜在意識(無意識の領域)の特徴の一つ、
「休むことなく自動で働き続ける」という機能には注意が必要です。
もしも、困った状況や、問題を抱えた状態で
「いったい何が悪いのだろう」と自分に問いかけた場合、
自動的に「何が悪いのか」その理由を探し続けてしまうことになってしまいます。
「やり方が悪いから」「自分の〇〇な性格のせいだ」
「運が悪い」「あの人が悪い」「きっと〇〇のせい」・・・
「そんな解決にならない答えを探し続けてしまい、
いつの間にか疲弊し、落ち込んでしまうことになるのです。
膨大な領域を占める潜在意識から「答え」を受け取るためには、
意識できる領域である「顕在意識による思考」の使い方を工夫する必要があります。
行き詰まった視点を移し、視野を広げるためにも、
自分に問いかける質問の内容を、「意識して」変えてみるだけで
導かれる答えは違うものになってきます。
「問題」に対して、
「答えがある」という前提の問いかけをするのか、
問題があることを嘆くような「否定的な」問いかけをしてしまうのかによって、
導かれる答えも変わってくるのです。
「この状況で、今の自分にできることは、何だろうか?」
「この問題を乗り越えたとき、自分はどんな風に成長しているだろう?」
物事を前向きに捉え、ポジティブな考え方をした方が
良いアイデアや、解決策が、思い浮かびやすく感じるのは
「潜在意識を上手く使う」という意味でも、筋が通っていると言えます。
ですが、その「ポジティブな考え方」でも、自分の本心と繋がっていないと、
どうしても、しっくりいかず、望むような結果も得にくくなってしまいます。
「本当の気持ち」を無視して、
頭で考えた「その状況において正しいこと」や「世間では当然だと言われること」を、
どんなに自分に納得させようとしても、
本音からズレてしまっていては、上手くいかないはずです。
顕在意識を使って、潜在意識に嘘をつくことはできません。
潜在意識の力を借りて、望みを叶えるためには、
「どうしたらいいのか」その方法ばかりを悩むよりも、
無意識にしていた「自分への言葉」の内容に気づくこと。そして、
「自分の深いところで、本当は何を望んでいるのか」
自分の本心を知っていくことが、
潜在意識の中の「まだ、見えていない、大きな領域」を信頼して、
活かしていくことに繋がるのです。
- 問題が起きたときに、反射的にどんなことを感じていますか?
(追い詰められる感じ、「またか」というあきらめ、不思議な高揚感、など) - すべての問題や悩みから開放されたとしたら、どんな気持ち、感覚で過ごしてると思いますか?
(その時の気持ち、心の状態や、体の感覚をイメージしてみてください) - 問題や悩みを抱えた状態から、抜け出すために、「やった方が良い」と心のどこかで感じていることや、「試してみたいけれど、怖い」と、思っていることはありますか?
- その経験があったからこそ、気づくことができた「自分にとって大切なもの」「失いたくないもの」「かけがえのないもの」は何ですか?
④ 人の体に備わる一定の状態に戻ろうとする機能 【ホメオスタシス】
人の身体には、
「変化」に対して「もとの状態に戻ろう」する力が、無意識に働く、
ホメオスタシス(恒常性維持機能)という機能が備わっています。
「体温を調整するための身体の機能」を例にしてみると、
風邪などをひいて、熱が上がった場合、
汗をかくことによって熱を下げ、元の体温に戻ろうとしたり、
逆に、寒い場所へ行って、体温が下がると、
身体を震わせることで、体温を上げようとする働きを、
身体が、「自動で」行うことで、
生命を守り、身体を健全な状態に保つことが考えられます。
人の身体には「いつもの状態でいよう」とする性質があるのです。
太古の昔、人間が文明を持つ以前から
「いつもと違う状態」は「危険な状態」であることが多かったはずです。
「命を守ろう」「生活を維持しよう」とするとき、
人は、リスクを犯さないように心がけ、
「いつもと同じこと」を選択することに、安心感を求めます。
そもそも、
「変わろう」「変化しよう」と意識すること自体、
生き物にとっては「不自然なこと」です。
だからこそ、
何らかの変化を感じたとき、無意識に、
身体の安全のために「もとの状態に戻ろう」とするのです。
この機能「戻ろうとする働き」は心にも影響します。
何か新しいことを始めたり、
今までのやり方を変えようとしたとき、
脳は違和感を感じ、警戒して、もとの状態に戻ろうとし、
心は不安や怖さを感じます。
通勤や通学に使う「いつもの道」を、「はじめて通る道」に変えてみる。
たった、それだけの変化でも、私たちは、緊張してドキドキしてしまうものです。
カウンセリングを受けて「心の状態に変化が現れたとき」にも、
この力が働くことがあります。
「これまでいた場所」から「未知の世界」に足を踏み入れるときに、
ソワソワして落ち着かなかったり、どうしようもなく嫌な感じがしたり、
場合によっては、頭やお腹に痛みを感じることや、
身体のスイッチが切れたように、突然の睡魔に襲われることもあります。
(正常な状態に戻るための)変化の途中で、
一時的に症状が悪化した(ように見える)状態になることは、
「好転反応」と呼ばれています。
脳が変化を察知し、「いつもの状態を維持できないこと」が怖れや不安となって、
不快やストレスに敏感な状態になってしまったり、
緊張や歪んだ状態を緩めていく中で、バランスを崩してしまうのです。
この「好転反応」は、「悪くなった」というより、
もともと抑え込んでいたいたものが「表面化した」と考えられますし、
それだけ、「強い力」が自分を守るために働いているとも捉えられます。
人(生き物)は、どうしても変化を怖れるものです。
「人生を変えたい、より良くしたい」と願いながらも、
実際の生活の中で何かを変えていくことは、思っている以上に、心の負担となるのです。
ですが、
「同じ場所に戻ろう」「現状を維持しよう」とする機能自体は、
決して悪いものではありませんし、
自分の身を守るための無意識の力、
生命を維持するために備わった、大切な本能と言えます。
変化の途中で「好転反応」が出ることも、同じように、
「悪いこと」ではなく、
これまでの「自分を歪ませる力が大きかったこと」が原因の一つであり、
見方を変えれば、
それだけの「回復できる力を持っている」ということでもあるのです。
思うように変われない自分を否定するのをやめて、
「いつの間にか戻ろうとしてしまう状態」「どんな状態を無意識に求めているのか」
自分の内側を丁寧に見ていくことができれば、心の傾向もわかります。
気がつくと繰り返している「行き詰まり」や「揺り戻し」の状態を、続けたくないのであれば、
「それを続けると、この先どんな人生になるのか」
「その場所にいることで何を期待していたのか」
「本当に求めていること」に気づくために、少し違う角度から自分を見つめてみる。
変わりたい、戻りたくないと思いながらも、
その状態で、安心している自分がいないか
その時、心の奥底では何を感じているのか
自分の内面に問いかけてみることで、
より深く自分を知ることができ、「どうしたいのか」が見えてきます。
これまでのやり方を無理やり変えようとしたり、
変化を受け付けない自分自身を責めるより、
その状況で、「何を感じているのか」を丁寧に掘り下げていくこと。それが、
もともと備わっている力を理解して、受け入れることになり、
「変化したい」という気持ちの奥の「本心」に気づくことが、
自分の感覚や本来の力を取りもどすことに繋がるのです。
- 「穏やかな日常」を過ごすために、気をつけていることはありますか?
(まわりの空気読む、自己主張は控えめにする、人に迷惑をかけない、など) - 「安心」「安全」などのキーワードで、あなたが思いつくことは何でしょうか?
(親の言うことを聞かなくては、安定した職業を選ぶ、など) - 今のバランスを崩したとき、何が起こることを怖れていますか?
(まわりから見放されそう、「何やってるの」と責められそう、など)
⑤ 自分の存在を認識するためには他者が必要 【ストローク】
私たちは、自分以外の誰かに、
「してほしいこと」をしてもらえたり、
「わかってくれている」と思えることに、
安心と、喜びを感じるものです。
人と人との「繋がり」の中で、
「気持ちを受け入れてもらうこと」は、
「自分の存在」を認識するうえで、とても大切なことと言えます。
「考えたこと」や「思っていること」「気持ち」が、
自分以外の「他の人」に伝わり、
理解しようとしてくれたり、共感を得ることは、
まわりから「自分の存在を認められている」という安心感に繋がるのです。
そもそも「感情」は、「自分以外の誰か」がいて、受けとめてくれないと、
その存在すら危うくなってしまいます。
もし、まわりに誰もいなかったとしたら、
自分のまわりの人が(自分に対して)何も興味や反応を示さなかったとしたら、
感情は行き場を失い、存在の意味をなくし、
やがて、「生きる気力」すら、失っていくはずです。
人は、気持ちを表現して自分の存在を確認しています。
自分の気持ちや、感情、そして「自分という存在」を認識するためには、
「自分以外の誰かの存在」が不可欠なのです。
他の人からの自分に対する「言動」や「働きかけ」は、
心理学では「ストローク」と呼ばれ、4つに分類されています
・無条件のプラスのストローク
(たとえ何をしても、何もしなくても、あなたを受け入れます)
・条件付きのプラスのストローク
(もし、あなたが条件を満たせば、あなたを受け入れます)
・条件付きのマイナスのストローク
(もし、あなたが条件を満たせないのなら、あなたを受け入れません)
・無条件のマイナスのストローク
(あなたが何をしても、あなたを受け入れません)
「ストローク」には、言葉での挨拶や会話だけでなく、
身体に触れる身体的なコミュニケーション、
さらには、表情や雰囲気から自然に伝わる感覚的なものまで、
人と人との「やり取り」の中で生まれる様々な方法が含まれます。
「自分を認識するため」に必要な「ストローク(まわりからの承認)」は、
人が生きていく中で、
身体にとっての「食料や水」と同じくらいの重要な価値があると言えます。
とくに、生まれて間もない赤ちゃんにとって、
大切な存在である「親」から受け取るストロークは、
その後の自分の存在価値を決めてしまうほど、大きな影響力を持ちます。
一番身近な存在である
親(保護者)からのストロークが「自分の価値」を決めるとも言えるのです。
両親がしてくれるお世話や、話しかけられる言葉だけでなく、
自分に向けられる眼差し、肌のぬくもり、無意識に感じる雰囲気まで、
子どもは、持っている感覚すべてを使って、
「ストローク」を受けとめ、「心の栄養」としていきます。
生まれ育った環境の中で「受け取ったこと」は、
「自分という存在」をつくっていくのです。
身近な人たちとの係わり合いを通じて、
自分の気持ちを「そうしてほしかったように」受け入れてもらえたとしたら、
人は、目の前の世界に対しても、安心して信頼できるようになるはずです。
ですが、もし、
気持ちを理解してもらえなかったり、
無視されたり、軽く扱われたりしたとしたら、
「不確かな自分の存在」とともに、
不安を抱えながら生きていくことになってしまいます。
心の栄養とも言える「ストローク」が不足してしまっても、
バランスが偏ってしまっても、
自分の存在価値の「土台」には、悪影響を与えてしまうのです。
食べたものが体内に取り込まれ、身体をつくっていくように、
心が受け取った「ストローク」は、自分という存在を構成する原料となります。
だからこそ、
自分は「どんな環境の中で生きてきたのか」を見つめ直し、
その場所で「何を受け取ってきたのか」と向き合うことが、
「自分という存在」を自分自身が「どう思っているのか」「どう扱っているのか」という、
自分の自分に対する「認識」や「価値」を知ることに繋がるのです。
- あなたは、両親から、どんな「ストローク」を受け取ったと思いますか?
- 生まれ育った環境の中で、あなたは何を感じていましたか?
- また、あなたの両親は、親(あなたにとっての祖父母)から、どのような「ストローク」を受け取ってきたと思いますか?
⑥ 一つの出来事に対して、感情は一つではない 【自我状態】
感情は「その時、その場面に一つだけ」
私たちは、そう思い込んでいるのではないでしょうか。
その一瞬に感じることのできる感情は、確かにひとつです。
ですが、
人の感情や意識は、瞬時に移り変わり、同じことを、ずっと考えてはいないものです。
例えば、小さい頃に、
住んでいる地域に台風が接近したときなど、
「危ない」「怖い」などの不安な感情だけでなく、
「何が起こるんだろう」と妙に興奮したり、
また、不思議なくらい冷静にニュースを眺める自分がいたり・・・
自分の中には、たくさんの「気持ち」「感情」「自我」が存在していたはずです。
アメリカの精神科医のエリック・バーンが提唱した交流分析の中では
親・成人・子どもの3つの心(自我状態)があると説明しています。
・親の心
(社会のルールを守ろうとする、相手を褒める、いたわる心)
(例)「台風がくるなら災害に気をつけなくては、みんなが心配だ」
・成人の心
(冷静に状況を判断する心)
(例)「風が強くなってきた、この雲行きだと夜には雨が降るだろう」
・子供の心
(無邪気に振る舞う、人に頼る心)
(例)「わーすごーい、一体どうなるんだろう?」
「なんだかこわいよー、誰か助けてー」
さらに親の心(意識)をやさしい親と、厳しい親の心に、
子供の心(意識)を無邪気な子供と、まわりの大人に従順な子供に区別し、
もっと細かく分類することもできると、考えられています。
私たちは成長し、常識や社会性を身につけるにしたがって、
「あまり思ってはいけない気持ち」や、
「社会的に不謹慎な感情」が増えていきます。
まわりの人との関係の中で、
「感じても許される感情」と「あまり感じるべきではない感情」を、
無意識のうちに判断し、選別してしまうのです。
もし、「分別のある大人」が、特別な理由もなく
「台風が接近してきて、ワクワクしてしまう、楽しみで仕方がない」
そんな「不謹慎なこと」を考えていては、
また、それを何も考えずに言葉にしてしまっては、
まわりから反感を買ったり、浮いた存在になってしまったりして、
人間関係に悪い影響を与えかねません。
一般的な社会生活の中では、感情をコントロールできることが、
理性を持った大人であるために必要なことのように、認識されていると言えます。
「その場面に不都合な感情」は、
まるで存在すらなかったかのように、フタをされてしまうのです。
社会(まわりの人)との間に共通の「ルール」や「決まりごと」をつくることは、
お互いの「感情」や「守るべき感覚」を共有することになり、
社会との繋がりを良好に保ち、
自分という存在が「ここに、いても大丈夫」と思えるために重要ですが、同時に、
「自分にしか、わからない感覚」を、自分から「切り放す」ことにもなります。
自分の感じていることを、すべてまわりの人に伝える必要はありません。
ですが、「感じていること」「思ったこと」は事実ですし、
身に起こる出来事を通じて、「その体験をしている」のは、「自分しかいない」のです。
自分が存在を認めていない「自分の姿」は、
「あってはならないこと」として、
自分も、まわりの人も、無意識に監視し排除しようとします。
本当は感じているはずの感情にフタをしてしまうことは、
窮屈で、不自然な状況を生み出す原因となってしまいます。
だからこそ、行き詰って、流れが悪いときほど、
封印して、隠してしまった感情や、
表に出せない、切り離してしまった自分がいることを意識する必要があるのです。
自分の感情(自我)が「ある」ことに気づくこと、認めてあげることは、
これまで「ない」と思い込んでいた「自分の姿」を思い出すことです。
その経験が、
見えていなかった「選択肢」や「可能性」を増やしてくれたり、
「受け入れられなかった人」を理解することになり、
結果的として、自分の「生き方」を楽な方へと導いてくれます。
内側に確かに「ある」気持ちを自分自身が否定したり、良い悪いを決めたりせず、
大切な自分の一部として受け入れることで、
その場の雰囲気に合わせて、
その時々の「いろいろな意識(自我)」を、「自由に」行き来できるようになり、
様々な自分の感情を味わい、
人と人との繋がりを深めながら、「感情豊かな人生」を送ることができるのです。
- 親・成人・子どもの心(意識)のうち、あなたが普段よく感じているのは、 どの心でしょうか?
- また、あまり感じないのはどの心(意識)でしょうか? もし、その心が現れ始めると、自分自身にどんな変化があると思いますか?
- 身のまわりに苦手な人、嫌いな人はいますか? その「目障りな人」は、どの心(意識)が強く現れていると思いますか?
⑦ 自分の中の、たくさんの「ちいさな自分」 【自分会議】
心理学の知識を学んだり、心の仕組みを理解することで、
無意識に「感じていること」に目を向けたり、
「意識」や「考え方」を分類して、名前をつけたりするのは、
自分の中に「いろいろな感情の自分がいる」という感覚を、
認識できるようになるためでもあります。
一つの出来事に直面する中で、
私たちの内側では、まるで「たくさんの自分がいる」かのように、
「いろいろな考え」「それぞれの思惑」を持った自分が、
個々の考え方や意見を主張しながら自分会議をしているのです。
例えば「今年中に結婚したい」と目標を持ったとします。
そのとき、自分の内面では、
100人の(小さな)自分が、100通りの人格を伴って、
自分の意見を主張し合っていると仮定してみると、
そのうちの半数以上の「ちいさな自分たち」が賛成した結果、
「賛成派」の意見が優勢になり、
結婚という目標を採用し、それに向かって行動に移し始めたと、考えられるはずです。
しかし、「100人の小さな自分の中」には、
「賛成派」の自分ばかりではなく、
「自信がない」と嘆く弱気な自分や、
「面倒くさいな」「無理だよ」と言い出す「反対派」の自分もいて、
協力的でなかったり、
足を引っ張るような、ネガティブな感情を引き起こしたりもします。
そんな「反対している自分」が、邪魔になるからといって、
説得して無理やり動かそうとしても、なかなか思い通りにはなってくれませんし、
だますようなことをして、行動させることもできません。
自分に嘘をついたり、誤魔化そうとしても「自分だから、わかってしまう」のです。
また、もともと乗り気だったはずの「賛成派」の自分も、
壁にぶつかり、上手くいかなくなりだすと、
「反対派」に影響され、自信を失いはじめ、
最終的に、結婚するという目標を諦めてしまうことにもなりかねません。
現実社会の集まりの中で「会議をする」のと同じように、心の中でも、
思い通りにならない自分とは、向き合って「対話をする」必要があるのです。
目標に向かうのを邪魔している「反対派」の自分も、
「なぜ、そんなことをするのか」「どんな気持ちで、そうしているのか」を、
よくよく話を聞いてあげて「わかってあげる」と、
否定的に見える自分も「自分のために」何かしらの考えがあって、
そんな、つれない態度をとっていたことが理解できます。
過去の傷ついた体験を引きずっている自分が、
「もう、あんな嫌な思いをしないように」慎重になっていたり、
やる気のないように見えた自分は、
「結婚しなくては」という考えが、自分の気持ちよりも、
世間体を気にしていることを知っていて、心配していたり・・・
どんな自分も、心の奥の本心では、
「自分を幸せにしたい」と思って「そうしている」のです。
自分の中の100人が心から納得し、
一つの目標に向かって、共通の意識でいるとしたら、
それが、たとえ夢物語のような目標であっても、
まわりから見ても不思議と違和感を感じないはずです。
存在を否定して「目を背けていた自分」「ありえない自分」こそが、実は、
大切な本心を握りしめています。
自分の中の「いろいろな人格」に目を向け、
それぞれの意見や、考え方を丁寧に聞いてあげて、
みんな「自分の幸せ」を願っていることに気づいていく。
自分の中にあった「分離」と向き合い、統合し、
どんな自分であっても、ただ、そこにいることを受け入れること。それが、
「あるがまま」の自然な姿であり、自分の力を最も生かせる状態です。
「ちいさな自分たち」は、
「いろいろなこと」を言っているように見えて、
「心の奥で本当に求めていること」は、根っこでは同じです。
すべての自分が心から納得し、安心できる居場所となる器のような存在に、
自分自身がなれたとき、
自分の本質と繋がる「心から望む世界」を生きられるのです。
- あなたの中に「やっかいな性格」「邪魔な人格の自分」はいますか?
- 「思い通りにならない自分」は、どんな態度でいますか? どんな表情で「あなた」を見ていると思いますか?
- 「邪魔な自分」の、「言いたいこと」を、よくよく聞いたとしたら、何と言いそうですか? 何を訴え、何を心配していますか?
⑧ 過去の感情は、今も消えてはいない 【トラウマ】
過去の出来事の中の感情であっても、
「その時の感情」は、消えてなくなるわけではありません。
過去に起きた事柄や現象についての記憶や、その時の行動の記憶は、
少しずつ薄れていくのかもしれません。
しかし、
「感情の記憶」は形を変えながら、
いつまでも「自分の中」に残っているのです。
心の奥に残った「感情の記憶」が、
「出来事(現象)」と強く結びつくことをトラウマと呼びます。
心の傷(トラウマ)というと、
台風や地震などの災害や、火事や事故、虐待など、
生命を脅かすような体験を想像する人が、多いかもしれませんが、
心はもっと微妙な日常の出来事によっても傷つくものです。
子供の頃、「本当はさみしかった」のに、我慢して
「良い子にして」留守番をしていたとします。
その時、我慢をしたのは、
お母さんに褒められたかったのか、
困らせたくなかったのか、
怒られるのが怖かったのか、
見捨てられたくなかったのか、
もっと他の理由があるのかは、わかりません。
ですが、その時の「本当は〇〇だった」という感情は、
消化されることなく、
心の中で凍結されたかのように、その場に残り続けるのです。
人が心に傷を負うのは、
誰かに「ヒドいこと」をされたり、「大変なこと」が起きたといった、
自分の外側で何があったのかよりも、
「自分の気持ちが満たされなかったこと」
「想いが守られなかったこと」
そんな、自分の内側で起こったことが、未消化のまま放置されることが、
引き金になります。
「未消化の感情」が歪んだまま蓄積されて「心の傷(トラウマ)」となるのです。
「わかってもらえなかった」「抑圧してしまった」「置き去りにされた」感情が、
「自分にとって、どれだけ大切だったのか」
「どれだけ、自分の気持ちを粗末にしてしまったのか」は、
「自分という存在」が、どれだけ「脅かされたのか」になり、
「心の傷の深さ」に、変わります。
自分の気持ちが守られなかったという「心の傷」は、
「認識できる記憶」の中では、少しずつ忘れてしまうのかもしれませんし、
そもそも、心が傷ついているという自覚すらないのかもしれません。
ですが、その代わりに、
絶えず、緊張した状態が続いたり、
外側からの刺激に反応して、脈が早くなったり、呼吸が乱れるなど、
身体の方に症状が出やすくなります。
心の傷は、潜在意識(無意識の領域)に残るのです。
身体の異変として表面化していなかったとしても、心の奥には、
「自分は、いつも〇〇な目にあう」
「私は〇〇しなくてはいけない立場になる」
「こんな時は〇〇になってしまう」
「〇〇は、どうしても避けられない」といった、
「考え方」や「信念」「セルフイメージ」に形を変えて、
未消化な感情は在り続けます。
そして、「目を向けていない感情」がある限り、
その感情を思い出させるような出来事が、まるでそれが、
人生の中でやり残してきた宿題であるかのように、目の前に起きてしまいます。
過去に置いてきてしまった「本当の気持ち」は、
自分自身が自覚して、受けとめてあげることでしか解消されないのです。
さらに、一度、その存在を隠すように、心の奥にしまい込まれた感情は、
思考によってフタをされ、
その上に「層」のように怒りや悲しみなどの感情が積み重なり、
簡単には見つからなくなっています。
表層に現れる感情だけを見ている限り、その奥にある「本当の痛み」はわかりません。
だからこそ、目の前に起きた出来事によって引き出された感情を、
「これまでと同じように」我慢して、やり過ごすのではなく、
また、誤魔化せないからといって、
感情を引き出す「原因」や「相手」に、感情をぶつけて済まそうとするのでもなく、
たとえ、それが、
「不快な感情」であっても、自分の気持ちとして受けとめ、「感じきる」ことで、
その奥の感情は、少しずつ見えてきます。
心の奥で、まだ、うずいている傷を見つけてあげるために、
感じている気持ちから目をそらさず、
その状況を通じて「心が求めていること」を、自分が自分に「してあげる」こと。
それは、自分に充分な時間を与えることかもしれないし、
受けとめてくれる誰かに気持ちを聞いてもらうことかもしれません。
ときには、同じような経験を「乗り越えた」人に、
勇気をもらうことも必要かもしれません。
自分を心から「わかってあげること」を、あきらめずに、
目の前にある「今、できること」を、一つひとつ「自分のために」していく。
「かつての痛み」の中から、「自分のしてほしかったこと」を
思い出してあげることで、
「これまでの自分」は救われます。
「心の傷」となった経験の
「自分にとっての意味」を「わかってあげること」が、
深く刻まれた傷を癒し、
「自分に対する信頼感を取りもどすことに繋がるのです。
- 不意によみがえってしまう記憶や、どうしても忘れることのできない体験や出来事はありますか?
- 悩んだり、行き詰まってしまうときに、いつも繰り返してしまうパターンはありますか? そのとき何を感じていますか?
- 過去の自分にとって、今の自分は、勇気や希望を与える存在だと思いますか?
- 未来の「幸せな自分」が、もし、会いに来てくれたとしたら、何と言ってくれると思いますか? どんなアドバイスをしてくれそうですか?
⑨ 心の中には幼い頃の自分がいる 【インナーチャイルド】
自分自身が「感じてきたこと」を、
過去にさかのぼって、掘り下げていったときに出会う、
かつての「幼い頃の自分の姿」を、「インナーチャイルド」と呼ぶことがあります。
インナーチャイルドは、
ヒプノセラピー(催眠療法)の中で触れる機会が多く、
それだけ、「無意識の領域」「感覚の世界」に近い存在と言えます。
「その当時、感じていたこと」を、
「子供の頃の姿を通して」見ていくのは、
かつての幼い自分が「感じていたことを、そのままに」体感しようと試みるとき、
その時の姿を通した視点である方が、
より感覚的に、「見ていた世界」を再体験しやすくなるからです。
大人になった「今の自分」には、まったく似つかわしくない感情や感覚が、
「子供の頃に感じたままの姿」で、自分の中には「ある」のです。
大人になった「今の自分」の中にある
不安や怖れ、モヤモヤする感じなどが、
「今の自分の感覚」だけは、どうしても、つかみきれないとき、
その「説明のつかない感覚」を、
「インナーチャイルドの視点」から見ていくことで、
自分の感覚として理解できるようになっていきます。
幼い自分が受け入れられず、無自覚に、
記憶の奥にしまい込まれた自分の姿を見つめ直すことは、
未消化な感情に光を当てるとともに、
自分が何者であるのか「自分の本質」を知ることにも繋がるのです。
また、自分を根本から理解していくためには、
「インナーチャイルド」と、成長し「大人になった自分」との間の「距離感」を見ていくことも、
大切な要素となります。
「今の自分」と「幼い頃の自分」との関係が、
まるで他人事のように、切り離された状態で接している限り、
「どうしてほしいのか」も、「どうやって助けてあげればよいのか」も、わからないままです。
また、逆に、
一体化してしまうほど近すぎてしまうと、
小さく無力だった頃の自分と同じように、感情に飲み込まれてしまい、
その時と変わらないまま、
自分には「どうすることもできない」と思い込んだ状態を、手放せなくなってしまいます。
インナーチャイルドが「感じていること」は、
自分自身が感じていた、切り離すことのできない、
それこそ自分の一部とも言える感覚です。
かつての自分と「同じ想い」を共有し、
心の底から「わかってあげる」こと。そして、
成長し大人になった今ならわかる広い視野と、
積み重ねてきた経験を自分自身が信じて、
幼い自分が、成し遂げられなかった想いを叶えてあげること。
それが、心の奥の傷ついた、
かつての自分(インナーチャイルド)を癒すことになるのです。
- 「幼い頃の自分」にとって、印象的な体験や、今の自分に影響があると感じる出来事はありますか?
- かつての「幼い頃の自分」に対して、「今のあなた」は、どんな感情を抱いていますか?
- また、「幼い頃の自分」は、「今のあなた」に、どんな感情を抱いていると思いますか?
⑩「何を感じるか」は、人それぞれ違っている 【投影】
もし仮に、自分以外の人が、まったく同じ体験をしたとしても、
「どう見えるのか」
「どう聞こえるのか」
「どう感じとるのか」
人は、それぞれ違うことを受け取っているはずです。
それは、ある意味、
「当たり前のこと」のようですが、
私たちは、ついつい、そのことを忘れてしまいます。
気がつかないうちに、しかし、頑なに、
自分の認知に固執し、執着してしまうのは、
それだけ、感覚や感情の存在が不確かなものであり、
そんな不安定さや不安を、少しでも補うために、
「誰かにわかってもらいたい」
「自分の気持ちに共感してほしい」
「こちらが正しいと思いたい」という気持ちを、
誰もが、自然に持っているからかもしれません。
人は内側の世界観を正当化するために、外側の世界を意味づけして見ています。
「目に映る現象」や「自分の身に起こったこと」「他人の心の中」を、
「きっと〇〇なはずだ」「〇〇に違いない」と思い込んでしまう「無自覚な想像」は、
自分の心の中を投影した結果なのです。
野に咲く花を見て、心を惹かれたとき、私たちは
「きれいだ」「かわいい」「ほっとする」など
様々な感情を持ちます。
しかし、
花が人々に「何かをしてあげようとして咲いている」訳ではないはずです。
見方を変えれば、
「花が咲いていること」に、何か意味があるのではなく、
花は「人の心から感情を引き出すきっかけ」となっているだけ。
そんな捉え方もできるはずです。
「感じている」のは、あくまで、「自分自身」なのです。
ネガティブな感情も同じです。
例えば、列に並んでいる時に、強引な割り込みをされたとします。
「ちゃんと並んでいたのにずるい」
「自分のことしか考えない人に違いない」
「並んでいる自分を馬鹿にしている気がする」
そんな怒りを感じたり、
もしくは、
「あの人は、何をそんなに急いでいるのだろう」
「自分が並んでいた場所が間違いだったのかもしれない」
そんな疑問や不安を感じたりして、
頭の中では、様々な「想像上の物語」が絶えず繰り広げられています。
「自分の感情」を引き出す原因となった
出来事や人物には、本来、何の意味もないはずです。
自分が考えている「それが、そこに存在する理由」も、「相手の心の中」も、すべて、
自分の考え方、価値観に照らし合わせた「想像」でしかなく、
「アレは、そういうもの(存在)だ」「アイツは、そう思っているに違いない」と、
勝手に思い込んでいるのです。
それは、感情を感じる原因「感情の種」のようなものが心の中に存在すると
イメージすると、わかりやすいかもしれません。
その「感情の種」が、自分の内側にある以上、
気持ちを引き出す原因となった相手や出来事が、
その場からなくなったとしても、
「別のきっかけ」によって、また、「同じ思い」をします。
そして、この「感情のもとになる種」は、
一人ひとりが「それぞれの形」で持っていることになります。
だから、自分の内側にないものは、決して、外側に現れることはないのです。
さらに、共通の(似通った)価値観の「種」を持った者同士が出会ったとき、
それぞれの種を反応させ、
それぞれの立場(役割)となり、それぞれが何かを感じることになります。
まったく価値観の合わない人(感情の種がない人)にとっては、
「気にもかけないこと」でも、
感情の種が反応する人達にとっては、
「どうしても譲れないこと」になります。
感情の種の反応によって、
自分は「劣っているかもしれない」と思っている者同士で、
(その人たちだけの)優劣を競い合い、
「劣等感」や「優越感」を(それぞれの心の中で)味わったり、
困っている(ように見える)人に対しては、
「助けてあげなくては」と(勝手に)思ったり、
助けてもらった相手の方も、
「迷惑をかけてしまった」と(思い込んで)後ろめたさを感じて、
「それぞれの世界」で「それぞれに何かを感じて」生きているのです。
別々の身体、人格を持った存在である以上、
どんなに親しい間柄であったり、
似たような感覚を共有していたとしても、
相手が何を考え、何を思っているのかを、すべて知ることはできませんし、
自分のことを、完璧に「わかってもらうこと」も不可能です。
「相手の気持ち」は(自分の感情の種をもとにした)「想像」の域を越えないのです。
「自分のしたこと」に対して、必要以上に負い目を感じたり、
責任を取ろうと過ぎてしまうと、
「自分の気持ち」そのものまで、否定してしまいます。
また、自分の言動に対して、あまりに無責任になってしまうと
自分が「何をしているのか」「何をしたいのか」わからなくなってしまいます。
目の前の世界が、そう見えるのは、自分の内面の何が映し出されたからなのか。
外側で起こる出来事に「反応し続けていること」に気づき、
内側で「何が起こっているのか」に意識を向けたとき、
自分を動かしていた「感情の種」の正体が明らかになります。
心の中が「投影」された目の前の世界によって、
自分自身が「何をしていたのか」「何を求めていたのか」自己理解ができるのです。
そして、何より忘れてはいけないことは、
私たちは、他人の心の中を読み取ることはできないはずなのに、
「心が通じ合った」「共感し合えた」と思える瞬間は、必ず、あるという事実です。
だからこそ、「わかり合う」ために、まず、自分の本心と繋がる必要があるのです。
自分の気持ちを、「受けとめてもらえた」と感じたとき
相手の気持ちを、「わかってあげられた」と感じたとき
誰かと「共感」し、心が通い合ったときの、理屈を越えた感覚は、
「自分という存在」そのものが、確かに「ここに、いる」と実感させてくれる大切な感情です。
誰か(何か)に「投影」することで表面化した感情を観ていくことで、
心の奥にある感情の種の存在に気づいていく。
無自覚な思い込みに振り回されていた状態から抜け出し、
自分の本心と繋がったとき、はじめて、人は、
本当の意味で、人と共感し合えるのです。
- まわりの人に「嫌いな人」「許せない人」はいますか? それは、どんな人ですか?
- 「嫌いな人」「許せない人」は、心の中で何を考えてそうしていると思いますか?
- あなたが思っている「嫌いな人」「許せない人」が考えていることは、本当ですか? なぜ、そう思うのですか?
⑪ 目の前に起こる出来事は、心の中で信じていること 【引き寄せ】
「自分が信じている」ことが、「目の前で起こっている」こと
「目の前に起こる出来事」は、心の状態が「引き寄せ」したもの
心の世界を学んでいくと、どうしても、
問題や悩みの理由が、「自分の内面」にあると認識していく機会が多くなります。
苦手な人や、不快な出来事に対して、
「心の中に不安や怖れがあるから、イヤな出来事を招いている・・・」と考えすぎて、
必要以上に自分を責める必要はありませんが、
たとえ、どんな出来事であっても、
それが(誰にとっても問題や悩みとなる)受け入れ難いことだったとしても、
その「出来事」から「何を見るのか」を、無自覚に「決めている」のは自分です。
人は目の前の選択をするとき、「自分に相応しいもの」を、
自分が自分に対して感じている価値「セルフイメージ」に照らし合わせて選んでいます。
今、目の前にある現実は、
自分が「許可した範囲」で、世界は「こういうものだ」と心の奥で信じているものを、
身のまわりに集めた結果と言えます。
本来は、自分が認識している以外にも
「たくさんの選択肢」が存在しているはず。なのに、
自分に「合っている」と思えないものは、
たとえ、目の前にあっても気がつかなかったり、
価値があることを知っていたとしても「受け取れない」のです。
それは、まるで、
あらゆる物質の持つ固有の周波数が共鳴するように、
同じ波長や振動がお互いに響き合うように、
類は友を呼ぶことになり、同じような体験を繰り返し、
身分相応だと思い込んでいる場所に落ち着くことになります。
心の奥で何を信じているのかという「前提」は、普段は意識されなくても、
人生の岐路となる「重要な選択」をするときや、
「これまでのやり方」を見直さなければならない場合など、
自分の立場が不透明で、先行きが見えないときほど、
考え方や、行動などに現れやすくなるものです。
例えば、
学校や職場などで「新しい環境」に入っていくとき、
自分自身が「みんなに受け入れられる存在だ」という前提で、人と接することができれば、
不安や怖さがあっても、自分の気持ちを素直に話すことができ、
(自分が思うように)まわりと打ち解け、
本当に欲しいものを手に入れていくはずです。
また、逆に「受け入れられない」「否定される」という前提があるとしたら、
どうしても、人と距離を置くことになり、
「自分を守るために」虚勢をはってみたり、よそよそしい態度を崩せなかったりして、
「素の自分」を出すことは怖いままになり、
「こんなはずではない」という不満ばかりが増えていってしまいます。
行動に現れる「選択」を、一つひとつ見ていくと、
世界を「どのように見ているのか」
自分は「どんな扱いをされると思い込んでいるのか」
この世界と自分に対する認知がわかります。
置かれた状況を、少しでも良くするために、
自分の「思い通りの現実」を「引き寄せたい」と願うとき、
心の奥には「こうなりたいくない」という不安や怖れを隠し持っていて、
その無意識の「思い込み」「前提」「信念」に合うものが、現実として目の前に現れます。
自分に「ない」ものを手に入れようとする行動は、
結果として、自分の中に「ある」怖れや不安の方を表面化させるのです。
たとえ、
自分に「ない」ものを、外側から得られたとしても、
失う心配や不安が、自分の内側に「ある」限り、
怖れを回避しようとする抵抗も空しく、
まるで、自分自身がはじめから仕組んでいたかのように、
同じところに引き戻されてしまいます。
もし、仮に、まわりの環境が変わったとしても、
「結局、最後はどうなるのか」という「自分が心の奥で信じている」結末に、
それこそ「引き寄せられる」ようになってしまうのです。
私たちは、意識的に「何かほしいもの」を「引き寄せよう」とする、ずっと前から、
もうすでに、心の奥で「信じている世界」を「引き寄せ」し続けてきたと言えます。
一人ひとりが無意識に思い込んでいる前提や世界観などは、
私たちが生きていく上で、拠り所となる大切なものです。
無理に手放したり、失くすことは難しいはずです。
ですが、無自覚に自分を動かしていた信念に「気づくこと」で、
自分の「本当の望み」に近づくことができます。
この世界にあるもの、すべての存在は、
エネルギーや振動数、波動であり、
似たような波動・周波数は、引き合い、
違うものは、反発し排除しようとします。
今、自分の身のまわりを観ることで、自分の心の状態(振動や波動)がわかります。
私たちの、行動や気持ち、感覚として感じていることが、
この振動するエネルギーの現れであり、
その力は、深いところにあるものほど、強くなります。
誰の心の奥にもある「譲れない想い」「揺るぎない本心」こそが、
人の持つ力・エネルギーの中で、最も引き寄せる力を持っているのです。
自分の内側にある本当の気持ちは、
自分自身が自覚していないと、それに見合うものを手に入れられず、
その存在に気づけないまま、歪んだ形で、翻弄され続けることになります。
だからこそ、自分の中の大切な「想い」を知り、受け入れ、繋がる必要がある。
「この世界を、どんな世界だと感じているのか」
「どんな存在だと、自分自身を無意識に思っているのか」に意識を向け、
自分の内側「本心は何を求めているのか」を丁寧に掘り下げていくこと、それが、
心の奥の想いを知ることになり、
大切な想いと繋がることで、自分らしさが増し、
心地よいエネルギーを源に行動することで、目に映る景色が変わり、
「大切な想い」に引き寄せられた、自分に相応しいもので、身のまわりが満たされていくのです。
- あなたにとって、この世界はどんな世界ですか?
(気が抜けない場所、よくわからないけれど何とかなる世界、など) - 「いつも結局こうなる」と思っていることはありますか?
(やっぱり信じてもらえない、いつも一人ぼっちになる、など) - 自分の持っている信念、固定観念は、いつ頃からありますか?
どのように、つくられたと思いますか?
⑫ 内側が先、外側が後
心理学、心や感情についての知識を使って自分の内側を見ていくことで、
自分自身が「どんな世界観を持っているのか」
「どんなルールの中で生きているのか」
無意識に持っている「前提」「思い込み」「世界の捉え方」を
見つけることができます。
そこには、自分の内側にある「前提」「固定観念」「心構え」といった、
自分の内側の「心の世界が」先にあって、後から外側の現実世界がつくられるという
考え方があります。
もしも、生き方の「根本」となる「前提」がズレていたら、
本心から望むものでなかったとしたら、
基本となる「決まりごと」や「ルール」が偏っていたら、
後につくられていく「外側の世界」は、いびつで歪んだものになってしまい、
「本当に手に入れたいもの」からは離れてしまいます。
心の知識やカウンセリングで費やした時間は、
霧がかかっているかのように、モヤモヤして「よくわからない」心の状態に向き合い、
無自覚に持っている「前提」を、
はっきり「わかる」ように見つめ直すことでもあります。
いろいろな角度から「自分を観る」視点を持つことで、
これまで「見えていなかった」自分の姿に気づくことができます。
ただ、どんなに自分の内側や心の状態を、「わかった」としても、
怖さや不安が、消えてなくなるものではありませんし、
嫌なことを(すべて)避けたり、
(自分にとって)悪い出来事が起こらない方法を思いつくわけでもありません。
心の知識や心理学は、
嫌な出来事を避けるために使おうとするとき、
その目的を果たせず、どうしても行き詰まってしまいます。
無自覚に抑え込み、見失ってしまったものに気づき、
意識を向けて、感じ直していくときにこそ、
自分の内面と向き合う手段、道具として、
知識や経験を、役立てることができるのです。
心の知識を使って「自分を知る」ことは、
結果として、
等身大の感情を「そのまま」味わう機会を得ることになります。
人は、先が見えない状況の中でも心細く、不安を感じますが、
「すべてを、はっきりわかってしまうこと」も、
心のどこかで怖れているものです。
自分がこれまで「してきたこと」を「受けとめること」も、
自分がこれから「どうしたいのか」に「向き合うこと」も、
「問題」にぶつかり、「悩み」に飲み込まれ、行き詰まってしまう経験がなければ、
ずっと「しないまま」だったかもしれません。
病気になって「体調が悪い状態」を味わうことで、はじめて、
これまで気がつけなかった「健康な状態」を認識できるように、
思い通りにならない、不快な体験を通じて、
「自分の内側で起きていること」を見つめ直すことで、
「自分の望む」心が求める生き方を、あらためて認識できるはずです。
自分と向き合い、自分の内側を見つめ直し、
自分の望みに正直に生きる怖さや、
自分への不安すらも、等身大に受け入れること。
自分の中に「ある」気持ちを、手放さずにいること。その上で、
「自分は、どうしたいのか」を決めていくことが、「自分を生きること」だと、
私は考えています。