自分の本質と繋がる

生まれ持った才能・能力を見つける

【想い】  本質と繋がる  

「何を人生の軸とするのか」

心の奥の譲れない気持ちに触れ、

「自分は何者なのか」を知る。

感情を掘り下げた先に見つかる「想い」は、

自分の「本質と才能」のありかを教えてくれます。

もの心ついたときから、
ずっと抱えてきた想いは、

かつての自分から、今の自分へと繋がる
「自分の軸」と言えます。

これまでの自分が、
「何を感じて生きてきたのか」を
見つめ直していくと、

「生まれてきた意味」とも言える、

心から「人にしてあげたいこと」
見つかります。

「自分探し」の先に見つけた「答え」

私が、カウンセリングに出会ったきっかけは「自分探し」でした。

昔から、
自分に自信がなく、自己主張ができなかった私にとって、

将来、
「どんな仕事がしたいのか」を決めることは、

学生時代から、
ずっと持ち続けていた悩みの一つだったと言えます。

「自分が何をしたいのか」が、本当に何もわからなかったのです。

それでも、
社会に出て自立するために、何とか自分で自分を説得し、奮い立たせ、
「今は、これぐらいしか選べないんだ」と、その場しのぎの理由をつけて仕事に就きました。

どこか煮え切らない生活を続けながらも、

結婚をし、子どもを授かり、
すべてに満足しているわけではない。けれど、
何とか社会との関係を保ち、家庭を持つところまではできました。

しかし、
長男が3才になり、言葉をしゃべり始め、
少しずつ会話ができるようになった頃、

父と子の、ありふれた日常のやり取りの中で、
私は、何とも言えない居心地の悪さを感じることになります。

当時は「普通に」勤めていて、「これでいい」と思っていたはずなのに、

息子に「おとうさんのお仕事はなに?」と聞かれることを怖れていたのです。

いつか、その質問をされたときに、
「私は父親として胸を張って、自分の仕事について話せるのだろうか」

そんな、漠然とした不安は徐々に大きくなり、

自分のことなのに、
「きっと、うまく答えられない、どうしよう」と考えてしまう怖れから、
どうにかして逃れたくて、

追い詰められるように、自分が「この人生の中で何をしたいのか」を探し始めました。

今になってみると、それは、
心の奥で、ずっと、くすぶっていた、

「このままで、いいのだろうか」という感情が、

日に日に成長する息子の姿を目の当たりにして、表面化したのだと思います。

「自分は何のために生きているのだろう」
「このまま人生が終わってしまうのは嫌だ」

そんな思いにかられて、あせりを感じた私は、
それまで、まったく触れることのなかった自己啓発関係の本を読んでみたり、
講演会やセミナーなどにも参加するようになりました。

しかし、
おぼろげながら自分の好きなこと、 やってみたいことが見え始めても、
「怖い」という感情が、常につきまとう感じで、

肝心な一歩が踏み出せず、うまく前に進むことができない。

そして、行動できない自分に対して自己嫌悪を感じて落ち込む・・・
そんな毎日を繰り返していました。

・自分探しは、自分の「居場所探し」

どうしても前に進めない閉塞感の中、私は心理カウンセリングに出会いました。

その時は、あまりにも自分のことを「ふがいない」と感じ、
そんな「自分を変えたい」という思いから、カウンセリングを受けたのです。

私の「自分探し」は、「自分の居場所探し」だったと、今では思います。

本質とつながる

あの頃の私は、
「今の自分」も「これまでの自分」も否定して、それこそ「なかったこと」にして、
「新しい自分」になれる「特別な何か」を求めていたのです。

それが、安心して生きられる場所を手に入れる方法だと信じていました。

自分探しや、天命、ライフワークと呼ばれる天職を見つけることは、
「自分の才能を活かす」という意味でも、決して間違いではないはずです。

ですが、「なぜ、自分の才能を知りたいのか」その根底にある本当の意図が問題だったのです。

自分探しが「今いる苦しい場所から抜け出す方法」になっている限り、

「なぜ、そんな苦しい場所にいるのか」

「そこで感じている気持ちに、どんな意味があるのか」

心の深いところで、
何を意図して「そんな生き方をしているのか」を知らないまま、

これまでの自分を切り捨てるために、

「ここではない、どこか」を探すことになってしまいます。

自分の内面と向き合うことを避けて、

「見たくない自分」を隠すように、人に誇れる特別な何かを身につけようとした。

そうやって無意識に「自分以外の誰か」になろうと頑張っていた・・・だから、
当然のように行き詰まってしまったのです。

人生を生きることは、表現をすること

人それぞれの人生、生き方には、

「信じていること」「考え方」「物事の捉え方」「世界観」が、

意識しなくても、にじみ出ているものです。

それは、「生き方」を通して、

自分の中にある「想い」を表現しているとも言えます。

「自分を苦しめる生き方」を、何とか変えようとしても、
同じことを繰り返してしまい、どうしても止められないとき、

その生き方、やり方を通して「何を訴えているのか」を、知る必要があります。

頑なになって、自分の殻にこもり、
まわりからは心を閉ざしているようにしか見えない行為でも、

心の奥では「何かを決めて」無意識の意図があって、そうしている。

「これまでのやり方」のおかげで、
何とか乗り切れたことも、大切なものを守れたことも、たくさん経験してきた。

苦しいのに、手放せない生き方の奥には、
自分が「この世界で求めているもの」が一緒に埋まっているのです。

うまくいかなかったり、行き詰まって流れが悪いとき、

表面的な方法を変えようとしたり、
目に見える問題ばかりを何とかしようとするのではなく、

その奥にある意図を掘り下げ、

「自分の本質」に繋がる「想い」に気づくときと言えます。

思い通りにならない現実を通して、
自分の求めている世界を思い出そうとしているとしたら、

問題や悩みが通過点だとしたら・・・

「なぜ、そんなことをしているのか」を見つめ直し、
自分の想いと繋がることで、

「本来の自分の活かし方」がわかるのです。

もともと持っている素質と才能を知る

誰にでも「人に何かをしてあげる」素質、才能があります。

そんな大切な能力も、
自分にっとては「当たり前」に感じてしまい、見過ごしてしまったり、
気がつかないうちに求めるレベルが高くなり過ぎていて、
その価値を認められないものです。

人は「できないこと」「苦手なこと」には、意識が向きやすく、
他人と比較して、劣等感まで抱くのに対して、

才能は、特に意識しなくても「できること」なので、
どうしても、自覚しにくいのです。

「心からそうしたいのか」「それが好きなのか」は、
自分にしかわからない「他人が決められない領域」ですが、

「何を人に与えているのか」「どんなところが喜ばれるのか」は、
「してもらう」側の相手の方が、よく知っているはずです。

自分が、自然に「している」ことで、

相手が、思いもかけず「喜んでくれる」こと、

そこに「才能」「ある」のです。

才能は、その存在を自覚し、「受け入れること」で、
さらに、磨くことができるようになります。

生まれ持った素質を活かし、
「想い」を行動の軸にした体験を重ねることができれば、

人は、自分の「求めている世界」の存在を実感しながら、
充実した毎日が送れるはずです。

しかし、
才能を「見失っている」原因も、
自分のものとして「受け入れられない」理由も、

自分の内側には、無自覚に「ある」のです。

自分自身が心の奥で、
「どんな世界を望んでいるのか」「人に何をしてあげたいのか」を知ること。

それと同時に、

自分の能力を否定するかのように、
「大切な想いを見失っているのは、なぜか」に気づいていくことが、

自分の内側にある本質・才能を活かすことに繋がるのです。

・世界は、どんな場所なのか

同じものを見ても、同じ体験をしたとしても、

「どう見えるのか」「何を感じるのか」「どんな解釈をするのか」は、
人それぞれ違います。

その体験、環境の中で「何を感じたのか」

それこそが、一人ひとりに備わった「素質・才能」に繋がる感覚であり、
生まれてから、これまで、ずっと自分の中に「ある」大切なものと言えます。

物事に対して感じる気持ちや、
良い悪いの判断をすること、
何が足りていないと思うのか、
何を優先すべきと感じるのか、

目の前の出来事を、どのように捉え、どう認知しているのかは、
自分の信じる「価値観」や、大切にしている「信念」となり、
生き方を決める基盤となります。

自分が内側で「感じていること」は、外側の世界をつくり出していくのです。

ですが、私たちは、
「自分がつくっている」という感覚よりも、

外側の世界が「自分に何かをしてくる」という
受け身の意識の方が、強くなってしまうものです。

「生きていくためには、身のまわりに意識を向けて、適応しなければいけない」

誰の心にも、当たり前に芽生える思い込みは、
深いところで生き方を支配し、

自分のいる世界は、「ないもの」や「足りないもの」ばかりが増えてしまう。

怖れや不安に突き動かされ、無自覚に「被害者」として生きることは、

この世界に「ある」はずだった、安心や安全を脅かし、
悲しみや怒り、心の痛みを生み出します。

そして、
その痛みは、自分にとって重要であるほど大きくなり、無視できなくなるのです。

善悪を決めつけて、
自分の正しさを証明したくなるのも

どうしても許せないことや、
受け入れられない人がいるのも

人に知られたくない、
隠しておきたい自分がいるのも

すべて自分の本質と繋がる世界観や価値観、
「こうあるべき」という信念があるからこそ、
物事を裁くように、無意識に判断してしまうと言えます。

望まないはずの現実は、「譲れない想い」のありかを教えてくれます。

そもそも、
自分の内側に「ある」という感覚が存在しなければ、
自分の外側の世界に「ない」と感じることはありません。

だから、自分の中の譲れないものがある場所には、
「大切な世界観」があるからこそ感じる不満や怖れ、心の痛みが、
一緒に存在してしまう
こと
になってしまうのです。

気がつかないうちに身に付いた「思い込み」や、
自分を縛る「枠」となる制限、
なかなか消えてくれない苦い「記憶」でさえも、

決して消えない「想い」に繋がる感覚が、内側に「ある」からこそ生まれたものであり、

自分が存在している、この世界に、
「ある」はずのものが「ない」という心の痛みを、少しでも自分から遠ざけるために、
つくり出されたもの
なのです。

・自分は、何者なのか

幼い頃から、すでに自分の中にあって、
どうしても、なくすことができない、
いつでも、内側に「ある」感覚。

たとえ、それが、
できれば避けておきたい感情「心の痛み」であっても、
「感じている感覚」は、自分が何者なのかを指し示しています。

向き合うことを無意識に怖れて、

ずっと、逃げていた自分の感覚が、ずっと、自分に伝えていたこと。

私が、いつも抱えていた居場所のなさ、
どこに行っても落ち着かない感じは、

生まれ育った家族の悲しい記憶、
特に「両親が不仲であったこと」と深く結びつき、
心の奥に暗い影のようにあり続け、
何かをしようとするたびに「怖さ」として意識に現れたものでした。

心が通い合っているとは、
どうしても「思えない」家族の中で、

でも、「何もできない」自分がいて、

ずっと、「どうすることもできなかった」

家族に対する罪悪感、悲しみが自分の中に存在し、自分を苦しめていた。

「おとうさんと、おかあさんの仲が悪いこと」で、
「自分には価値がない」と思い込み、

無力感にさいなまれ、
無自覚に自分を責めていたのです。

どうしても、消し去ることができず、心の奥に抑え込もうとした気持ちは、

行き場を失い、
未消化なまま増幅し、
世の中すべてを「怖い」と思う感情になって、

呪いのように、自分を縛り続けていました。

何をするにも感じてしまう「怖さ」や「生きづらさ」は、
見ないようにしていた「過去の感情の記憶」と、深いところで繋がっていたのです。

まだ、何も知らなかった自分が、
でも、心底傷ついた「あのときの想い」を、
もう、二度と味わうことのないように、

自分を縛り、自分を守るかのように、まとわりつく「怖い」という感覚。

今も、私の中の「怖い」という感情が、すべて消えたわけではありません。

ですが、
「怖いと思う自分」を理解することで、

「感じていること」を、少しずつ受け入れ、許せるようになりました。

自分の中の「不快な感情」と向き合うことは、

無意識に避けていた「心の痛み」

「怖れ」「居場所のなさ」「追い詰められる感じ」そして、
「罪悪感」を、自分の感情として受け入れていくことと、一緒に、

どうしても譲れない「大切な想い」

幼い頃から「何を感じていたのか」を見つめ直し、
「本当に欲しかったものは、何だったのか」を思い出すことでもあったのです。

幼い頃、

自分の目の前になくて、ずっと欲しくて、どうしても手に入らなくて、

自分には関係ないと思い込んで、もう見ないようにしていたもの。

そんな痛みの記憶こそが、

この先、

自分の「想い」が、「つくっていくもの」を教えてくれていた。

「あのとき」の私が、

心から求めていた「居場所」は、

本当の気持ちを、「自分のしたいように」表現することが、

当たり前に、でも、何よりも大切にされていて、

その場にいるみんなが、お互いに信頼しあって、

待っていてくれて、見守ってくれて、

安心して、
「自分の弱さ」と「自分の想い」に向き合える。

そんな、
「自分でいること」が、「許される場所」だと、

今は、感じています。

「人のため」と「自分のため」

心から「つくりたい世界」や、
生き方を通して表現している「想い」は、

自分だけでなく、みんなに認められ、喜んでもらいたいものです。

人は、まわりの人との繋がりの中で生きています。

だから、誰でも、
自分以外の誰かを幸せにしてあげられると、より深い幸せを感じるのです。

ただ、「人の役に立ちたい」「何かをしてあげたい」という気持ちは、
人の優しさ、素晴らしさを表現すると同時に、
自分を見失ってしまう落とし穴となる危うさがあります。

「誰かから必要とされている」と感じられることは、
「ここに、いてもいい」という安心感を得られます。

ですが、他人からの評価ばかりが目的になると、
不安や怖さは、かえって大きくなるのです。

ただ、したいからやるのか
人に認められたくて、しているのか

自分の「好きなこと」「やりたいこと」を使って
誰かに認められようとしていると、心から満たされることは難しくなります。

「してあげたのに」と不満に思ったり、
相手は「どう思っているのか」不安を感じたり、
気がつかないうちに「恩着せがましく」なってしまうとき、

心の奥には、我慢や自己肯定感の低さや、無価値観があります。

自己犠牲には見返りが必要になってしまうのです。

「役に立つこと」「認められること」が、
自分の欠乏感や不安を埋めるためになってしまうと、
どうしても苦しくなってしまい、受け取る相手も安心できません。

「人を助けてあげたい」という気持ちですら、
自分の中に「認められたい」「不安をなくしたい」などの
満たされていない傷があると、

自分自身が「怖れから目を背けること」が隠された目的となり、
お互いに相手を利用して「依存し合う」関係の原因にもなってしまいます。

無自覚な「自分への疑い」は、

「足りないものを埋めよう」と意識を外側へと向けさせたり、
逆に、まわりを「見えなく」させてしまいます。

その結果、「自分らしさ」から離れてしまい、

まわりとの関係も「不調和」に陥り、行き詰まるのです。

・「自己犠牲」と「自分中心」

「誰かを喜ばせるために、自分を置き去りにする」ことと、
「誰からも受け入れられず、自分の喜びだけに没頭してまう」こと、

どちらかに偏っていると流れが悪くなり、うまく伝わりません。

「自分さえ我慢すれば」も、「自分だけ良ければ」も、そのどちらも、
自分とまわりとが分離した世界で生きているという意味では、実は同じです。

この世界にいてくれる「一人ひとり」が、
それぞれ違った表現方法で、「みんな」を豊かにするための能力「才能」を、

自分だけが所有している「特別な何か」と考えてしまうと、

与えられた才能を使うとき「怖れ」を感じたり、
不自然なコントロールが必要になってしまいます。

自分の行動は、ずっと抱えてきた「想い」に誠実であるのか。

譲れない「想い」に値する自分でいるために、まず、自分が、
手の届く範囲、身のまわりから、心が本当に望む世界を選択して生きる
と決める。

「自分はどんな世界で生きていたいのか」
「世界はどうあってほしいのか」

内側にある「願い」こそが、怖れや不安を乗り越える力となります。

「世界に何をすればいいのか」「世界からどんな評価をされるのか」という
分離した意識から抜け出し、

自分自身が、
自分を含めた「大きな世界の流れ」の一部を担う存在だと思えたとき、

才能を使うときの抵抗はなくなります。

これまで、生きてきた中で、
たくさんの想いを受け取ってきたからこそ、

自分の中に大切な想いが芽生え、誰かに届けたいと感じたはずなのです。

自然な循環の中の「繋がりの意識」を思い出すことが、
「自分のためが誰かのためにもなり、誰かのためが自分の喜びにもなる」

そんな、調和のとれた「喜びの循環」をつくっていきます。

私たちは、誰でも、
与えた側も、受け取った側も、一緒に満たされる「分かち合い」の世界で生きることを、
自分の意思で選択できるのです。

・自分の中にある「想い」に繋がり直す

幼い頃は誰にでも、ただ、好きだから、
人から認められなくても、それでも、やっていたことがあったはずです。

しかし、もの心つく頃には、すでに抱えていた想いは、あまりに無防備なため、

自分ではどうすることもできないまま、無自覚に傷つけられてしまいます。

「想い」がうまく届かなくて、軽く扱われて、誤解されて、
どれだけの痛みを負ったのか知らないまま、
怖れや傷となり、フタをして、やがて「わからなく」なってしまう。

想いの傷となる挫折や失敗の体験は、純粋な想いに近ければ近いほど、
繊細で深い痛みになって、心の奥にしまい込まれます。

自分の軸となる想い「人にしてあげたいこと」を、掘り起こすことは、
「また、傷つく」覚悟を試されることにもなります。

フタをした「かつての痛み」に、また、向き合うことになるのです。

気がつかないうちに負っていた心の傷、自分を責めていた罪悪感に気づき、
その傷を癒すことで、人生を通して本当に表現したいことは見えてきます。

「自分と向き合うこと」は、
自分が「してきたこと」の奥にある「譲れない想い」を見つけ、
受け入れていくことでもあります。

自分自身を見つめ直し、
「なぜ、それをしていたのか」「何をしてあげたかったのか」を掘り下げていくと、

必ず、みんなを幸せにするための「純粋な想い」に、たどり着くことができます。

心の奥に秘めた「想い」こそ、唯一無二の才能であり、
ずっと、自分の中に「ある」もの
なのです。

才能を自覚できないままでいると、

磨いていく機会を失うばかりか、才能の存在が周囲とのズレを生み、
悪循環や苦しみの原因にもなります。

自分の望む世界から離れてしまった「不本意な現実」の
「不調和」な状態に、一つひとつ気づいて、

その度に、無自覚に痛みを避けるための抵抗を手放し、「想い」を思い出していく。

「望んでいる世界」の自然な流れを信じながら、「才能」を使えたとき、

自分と世界は「調和」しながら、満たされます。

生まれ持った才能に繋がる「想い」の価値を、
他でもない自分自身が受け入れたとき、

はじめて、もとの「自然な状態」になり、本来の姿に「戻る」ことができるのです。

本質とつながる

自分の本質と繋がるときに必要なことは、
それを「してあげたいと思えた自分」の純粋な気持ちを、そのまま認めることだけです。

「想い」の存在そのものに、すでに価値はあるのです。

自分の本質と繋がる

ここまで連れてきてくれた能力・才能を「活かす」

もし、「恵まれた環境で育った」と思えるのなら、
最も優れた能力「才能」を、のびのびと伸ばせたはずですし、

逆に、「苦しく、つらい中で生きてきた」と感じるのなら、
その場所で「生き延びるために」頼りにした能力も「才能」と呼べるはずです。

生まれ持った素質「才能」は、いつも「自分の中」にあったのです。

自分を「ここではない、どこか」へ運んでくれる特別な才能を求めてしまうと、
自分に足らない何かを探し続けて、結局、自分から離れてしまいます。

「どうしたらいいんだろう」を探しているときは、いつも、
人に認められるための答え「他人の軸」になって、

自分の能力を疑い、自分にも、まわりにも、心を閉ざしている状態です。

どんなに行き詰まったとしても、

自分への問いかけを、
「自分はどうしたいのか」「どんな世界を望んでいるのか」に変えることで、

私たちは、いつでも「自分の軸」に戻ってこられるはずです。

壁にぶつかり、立ち止まるたびに、心の奥の「想い」を掘り下げ、
「みんなに見せてあげたい世界」に目を向けて、「自分らしく」表現すること。

それが結果として、誰かの「希望」へと繋がります。

人それぞれ「抱えている葛藤」は、それこそ、人の数だけ違っているものです。

それなのに、

心の奥にある「想い」を、自分が授かった「才能」として表現したとき、

その姿は、この世界すべての人の恩恵となり、広がって、循環していきます。

それが、どんなにつらく、
できることなら味わいたくなかった心の痛みだったとしても、

その体験の意味を見出し、受容した自分だからこそ伝えられる、
「譲れない想い」が、もし、あるのなら、

自分に与えられた能力を「活かす」ためにも、

硬く閉ざしていた気持ちを緩め、心をひらくこと。

素の自分を見せることを、怖がらないこと。

想いを「そのまま」表に出すことを、許すこと。

自分の本質である「想い」を、飾ることなく、素直に表現する「在り方」にこそ、
人の心を開く力があります。

本来の自然な流れである「循環」の中に身を置き、ありのままの姿で「調和」すること、

それが、素直な「想い」に叶う、「自分らしい」生き方であり、

才能を活かすことで、
「心から願っていた世界」を「自分に体験させてあげる」ことができるのです。

自分の人生に「ない」ものを求めて、嘆いていたときも、

自分を信じられなくなって、人生の流れすら悪くなったときも、

自分の素の姿に不安を感じて、隠さずにはいられなかったときも、

そんな苦しいとき、自分を受け入れられないときですら、

自分の持っている「本質」「能力」「才能」を使って、自分を責め、偽り、

それこそ「自分らしく歪んでみせていた」と言えます。

「自分らしさ」も、「想い」も、決して消えない。だから、
自分自身が受け入れ、活かしてあげる。

自分の軸となる、生まれてからずっと抱えていた「想い」を知る。
それは、

かつて、あきらめようとした世界を、もう一度、一生をかけて取りもどすことであり、

純粋な存在だった頃の「想いと一緒にいた姿」に、還っていくことなのです。


人は、生き方を通して「想い」を表現している

「心からやりたいこと」は、

自分を救ってくれるから、価値があるのではなく、

どんな努力でも、
ずっと追いかける価値があって、

そこに向かう喜びを感じ続けられるから、

価値がある。

生まれ持った才能を活かしてあげる。

自分が「持っているもの」と、
「憧れるもの」は、違うかもしれない。

けれど、
心の底で望んでいる世界観は同じ

「人にしてあげたいこと」としての根っこは同じ。

もの心ついたときから、ずっと一緒にいて、

自分が存在している限り消えない「想い」

「想い」は、
喜びや充実感を教えてくれるだけでなく、

「想い」があるからこそ、
向き合うべき葛藤も、増える。

人の「したこと」は、表面で何をしたのかよりも、

心の深いところで意図していることが、
隠しても、相手には伝わり、広がり、大きくなって、

やがて、自分のところに還ってくる。

「認められたい」が、始まりならば、
認められなくては満たされない世界が続く。

「喜んでほしい」が、始まりならば、
人を喜ばせた笑顔がめぐり、還ってくる。

その結果は、どれも「間違い」ではなく、

自分らしく生きているか、

自分の軸からズレていないか、

「自分はそれでいいのか」が、

目に見える形として現れるだけ。

自分の軸である「想い」は、
一生をかけて磨いていくもの。

だから、一歩ずつ自分のものにしていけばいい。

自分の内側にある「想い」の価値を、認めること

自分の外側にある良さそうな「方法」に、心を奪われないこと

ブレたのなら、
他人の軸になっていることに気づいたのなら、

その時は、
自分と向き合って、癒やしていけばいい。

心から自分が癒されたとき、
「なぜ、そうしていたのか」これまでの意味がわかる。

経験が糧になる。

誰にも認められなかったとしても
「したい」と思ってしまうこと

自分の歩みを振り返ったとき、
気づくと、ずっと「していたこと」

自分以外の理由、
外から持ってきた価値は、

純粋だったはずの「想い」の
存在価値が揺らぐ原因にも、なってしまう

「これが自分なんだ」という覚悟。
ある種のあきらめ。

自分以外の誰かには、なれないのだから。

自分が自分のことを信じている分だけ、
人の幸せも信じられる。

かつて、自分の存在よりも「大切な人」に、
届いてほしくて、わかってほしかった「想い」

大切な想いがあるせいで生まれた痛みや、
挫折であっても、

その経験を、深く、掘り下げていくと、

自分の中に、ただ「想い」が「ある」
それだけの価値にたどり着く。

生まれた環境の中で、ただ純粋に、
まっすぐに生きてきたときも

気がつかないうちに、歪みが生まれ、
苦しみの中もがいていたときも

心を閉ざし、すねるようにしか、
自分を表現できなかったときも

自分の中にある「想い」は、
ずっと握り締めているはずなのに、
信じられなくて、見失って、でも、一緒に生きてきた。

心の奥にある「罪悪感」「無力感」「無価値観」

痛みや傷を埋めるためではなく、

湧き上がる「想い」が「ある」ことを、

ただ伝えたくて、伝える。

思うままに、心がしたいように、表現する。

それだけで満たされていく、

ずっと抱えてきた「想い」


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