ヒプノセラピー(催眠療法)

ヒプノセラピー(催眠療法)

内面に意識を向け「自分に気づいていく」

閉ざしていた心の
「静かな声」に寄り添う

不快な現実を「何とかしよう」として、
頭で「考えること」に、行き詰まったとき、

「感じている」感覚に意識を向けることで、見失っていた答えを見つけることができます。

身体を緩めてリラックスすることは、

外側に反応し続けていた意識を、自分の内側に向けることに繋がります。

絶え間なく使っている思考を、いっとき休ませて、
身体が「感じていること」を、「そのまま」受けとめることで、

何を怖れて、何を信じて、何を求めているのか、
見えていなかった自分の内面に、気づいていきます。

無意識に「何を感じて」生きてきたのか

ヒプノセラピー(催眠療法)では、「感じている」感覚の領域に意識を向けていきます。

私たちは、それを意識するかどうかに関係なく、様々なことを感じて生活しているものです。

「目に映る見慣れた景色、匂いの感じ、雰囲気」

「自然に耳に流れ込む音、ざわめき、空気感」

「肌に伝わる感触、呼吸の深さ、緊張感」

身体が自然に感じる
「ぬくもり、痛み、ふっとゆるむ感じ、ぎゅっと締めつけられる感じ・・・」

何気ない日常の「身近で、ありふれた感覚」は、

何の違和感も、何の問題もなければ、

ごく自然に無意識の隅に埋もれながら、いつの間にか消えていきます。

たとえ、
自分自身が気づかなかったとしても、

身体は、「いつでも」「何らかの感情をともなって」
「認識しきれないほど多くのこと」
を、感じ続けています。

そして、
その「無自覚な感覚」は、
意識を向けさえすれば、いつでも認識することができるのです。

また、
特別に意識されることのない「いつも通りの」感覚が、
流れるように消化され、

目立った印象も残こさず、他のことに移り変わっていくのと違い、

「不快な」感覚は、意識が向きやすくなり、

「無視できない感覚」に対して「何とかしよう」と思考を働かせて、
不快感を遠ざけようとするための行動を促しながら、

ずっと、意識を「向けさせられて」しまうものです。

「不快」な感覚、「不愉快」な感情であるほど、人は、より意識が向くようにできています。

そもそも、感情も、感覚も、
「感じていること」は、すべて、「自分に、何かを伝えるために」存在しています。

だから、自分自身が、「感じた、その意味」を受けとめ、
「なぜ、感じたのか」を理解するまで消化されず、繰り返し感じてしまうのです。

感じたくない「不快」を回避し、望まない「不本意な出来事」を遠ざけるために、
「何とかしよう」「状況を変えよう」と努力しても、行き詰まるとき、

「無意識の領域」では、表面上の「思考ではわからない何か」が、
自分自身に「何かを伝えよう」と起こり続けています。

不快な状況、苦しみの渦中で、

感情は、何を自分に気づいてほしいのか。

無意識の領域から自分を動かす存在である
「感じている」感覚は、「思い通り」に変えたり、消えてはくれない。けれど、

意識を向けることで、
感情や感覚が教えてくれる身体からのからのメッセージを受け取ることができるのです。

・言葉の奥に隠されたもの

私たちが「気持ち」を「言葉にして」伝えるとき、

感覚的に「感じたこと」よりも、
頭で「考えたこと」に頼ることが多くなるものです。

「こう思っている」「こんな風に感じている」と、
感情を「言葉」で認識して表現するとき、

「感じた感覚」そのままの状態から、
「相手に伝わりそうな」「みんなと共有できる」言葉へと、

無意識の「翻訳」が、脳内で自然に行われているのです。

「思考」による言語化は、「感覚」を切り取ることで成り立っています。

内面にあるものを「言葉にすること」で、
自分で把握したり、人に聞いてもらえる安心感は得られますが、

使われる言葉の中に、「感じていること」すべてを含むことはできないのです。

実体を持たない感情や感覚にとって、
人から「受け入れてもらう」ことや、まわりの人と「共有できる」ことは、
存在を確かなものと感じるために、とても重要です。

ですが、
感情を「理解してもらえる言葉」にする過程で、
うまく伝わらないものや、不適切と判断されたものは、

不要なものとして削りとられ、
無難な言い回しに形を整えられてしまいます。

自分の内面に確かにあった、自然な「ありのまま」の感覚は、

思考による解釈によって、「不自然な状態」に歪められ、

外側に表現したときには、もう、もともとの「それ」ではありません。

誰かに伝えたかっただけの、
うれしいも、かなしいも、たのしいも、くるしいも、

「みんなが」当たり前に使う、「わかりやすい」言葉のラベルが貼られたとき、

少しだけ、自分の感覚から離れ、
自由な形を失い、
窮屈に固定されてしまうのです。

そして、
そのとき「言語化できなかった」感情や感覚は、消えてなくなるのではなく、

認識している言葉の奥にある「無意識の領域」に、取り残されることになります。

私たちは、無自覚に、
自分の感じた感覚の中の「不都合なもの」を封印し、

まわりに合わせるために「都合の良いもの」だけを残して、身を固めて生きています。

特に、触れていたくない「言葉にならない」深い心の痛みや、
「受け取り切れなかった」負の感情であればあるほど、

不適切な感情として判別され、
「良くないもの」「あってはならないもの」と意味づけされて、遠ざけられ、

気がつかないまま自分から切り離そうとして、無意識の奥にしまい込まれてしまうのです。

・行き詰まりの始まり

不快な出来事から抜け出せず、行き詰まってしまうとき、人は、

「自然に湧き上がった」ただ、それだけの感情に対して、
無自覚に「悪いもの」「不快なもの」と判断して、

「何とかしよう」と葛藤して苦しんだあげく、表面的な対処をし続けています。

それと同時に、

心の中では、起こった出来事だけでなく、
渦中の自分自身に対しても嫌悪感を抱き、自分を否定しながら、

克服しようと試みたり、問題を避ける方法を探している・・・。

そんな「繰り返し」の中にいます。

「感じていること」に「良い・悪い」の判断を下して、
「不快な感情」を自分から「遠ざけるための行動」をしたとき、すでに、

「行き詰まり」は始まっていると言えるのです。

その行動は、何を思い込み、何を決めた結果なのか。

私たちは、望まない感情を「分離しておく」ための無意識の行動として、

思考で「自分の解釈による真実」をつくり、目の前の出来事に対処し続け、

結果的に物事を複雑にしています。

「ある」ことを許せない感情は、
無意識に直視することを怖れているため、

心の痛みを感じた自分の存在ごと、まとめて切り離して「ない」ことにしようとする。

そして、痛みを回避するための行動に、

「意味のあることだ」と正当化する理由をつけ、
「この世界は、こういういものだ」という信念でフタをして、

偏った思い込みとともに、無自覚に自分を守り続けようとします。

「本当は感じている」心の痛みを切り離すために、
思い込みに従って 「思考がつくった世界」を、

これが 「本当の世界だ」と、疑うことなく信じて生きているのです。

「考えること」を手放す

「どうして思い通りにならないのか」
「なぜ、うまく前に進めないのか」
いくら頭で考えても「わからない」とき、それは、
頭(思考)で「考えること」の限界と言えます。

感覚の奥底にある「思い込み」を見つけるために、
「頭で考えること」を使ってみても、うまくいきません。

行き詰まった状況から抜け出すために必要なのは、

無意識に駆使してきた「思考」の存在に気づいていくこと、

そして、置き去りにしてきた「感情」に意識を向けることです。

無自覚に使っている「考えること」に気づき、
「感じていること」に意識を向ける
ことで、

「何を避けているのか」「何を思い込んでいるのか」「何が心の痛みなのか」
心の奥の本心に繋がり直すことができるのです。

行き詰まって、先が見えなくなってしまった、そもそもの原因は、
「本当は感じている気持ち」を見ないようにしたから
です。

「変わりたい」「乗り越えなくては」と強く心に思い、追い詰められるとき、

心の奥にしまいこんだ不安や怖れを回避するために、思考がつくった
「思い込みの枠に縛られた世界」の中だけで解決しようとして、

もがき続けている状態なのです。

・「感じていること」に意識を向ける

気がつかないうちに、過去の経験によってつくられた「思い込み」から
どうしても「自由になれない」ことの例として、

「小さな箱の中に閉じ込められたノミは、やがて天井の高さまでしか飛べなくなる」

「ロープに繋がれて育てられた子象は、
大人になっても、ロープを引きちぎって逃げられると信じられない」
など、

自己啓発の分野などでは、よく使われる例え話があります。

話の中で「箱」や「ロープ」に例えられる、
自分を制限する「思い込みに気づくこと」も、もちろん大切ですが、

そこから先、どうしても行き詰まるとき、制限から自由になれないとき、
「無意識の領域で信じていること」が、強く影響しています。

自分を縛りつける「思い込み」から勢いをつけて飛び出そうとすると、同時に、

もう何の効力もないはずの「箱」や「ロープ」が、
「なぜ、そんなにまで自分を不自由にしてしまうのか」

無意識に本当は感じている不安や怖さを、切り捨てようとしていると言えます。

誰かにされたことや、過去にあったことを、どんなに「考えて」みても、

自分の外側に原因を探していることになり、
「思考」を使った脳内の物語から抜けられません。

「どんな環境だったのか」「何をされたのか」よりも、

「そこで、何を感じたのか」「どう受け取ったのか」自分の内側で起きたこと。そして、

どんな世界に自分はいると信じてしまったのか

その世界には何が「ない」と思い込んだのか

心の痛みとなった感覚そのものに、「自分にとっての重要な意味」があります。

本来、感じるべきところを、考えて何とかしようとするから、

いつも同じような場所で、行き詰まってしまう。

「自分にはできる」とポジティブに考えてみたり、
自分を追い込んで「限界を乗り越える」方法を試みても、

過去を振り返り「こうなってしまった」理由を突き止めてみても、

どうしても、前に進めないとしたら、

「思考」を使って「外側に」働きかけることを、一度、あきらめ、手放して、
内面にある「そのままの感情」に意識を向け、受けとめることで、

自分が「何を見失っていたのか」に気づく糸口が見つかるのです。

・感覚を開いて、気づいていく

外側で起こる目の前の現実をつくっているのは、内側にある無意識の領域です。

ただ、意識するしないにかかわらず、

本来いつでも「ある」はずの「無意識」は、通常は把握できません。

無意識の領域は、「考えて、わかろうとする」世界でなく、
「感じることで、触れられる」世界です。

手を強く握り締めたままでは、何もつかめないように、
身体も心も閉ざしたままでは、何も感じられなくなってしまいます。

考えると心は閉じてしまうのです。

心が「何を感じているのか」わからない時は、無理に言葉にしないように、
「わからない」という状態をいったん受け入れてみる。

その上で、
思考で「考えること」を少しの間、休ませながら、
自分の内側に、深く、集中していきます。

感じている「感覚」に無自覚にしていた、
「良い・悪い」「心地よい・不愉快」の判断に気づき、手放して、

自分の内面を、ただ、感じていく。

無自覚なままでいると、
何事もなかったように「そのまま」流れていく感覚に
「意識を向けること」が、

身体からの「メッセージを受け取ること」に繋がります。

胸のあたりのモヤモヤ、頭に感じる重さ、お腹の奥にある痛み、背中全体の硬さ・・・

問題や悩みに飲み込まれて「どうしたらいいのか、わからない」自分に対して、
身体は様々な反応を伝え、自分の状態を教えてくれています。

「何も感じられない」という感覚でさえ、

「闇の中で、真っ暗な感じ」で、何も感じられないのか、

「胸に空いた穴が、はてしなく広がるような感じ」で、何も感じられないのか、

「言葉のラベル」で意味を制限される前の感覚の中には、
「探している答え」に繋がる「何か」が、ずっと、存在しています。

「何とかしよう」という考えを手放し、

「感じている」感覚に意識を向けることで、

たくさんの「ある」ものに気づけるのです。

・呼吸を整えて、自分に集中する

呼吸「息をすること」は、
生命を維持する自律神経の中で唯一、自分でコントロールができる機能と言えます。

「意識して」身体にアプローチできるのが呼吸なのです。

心と息は、とても深い関係にあり、呼吸は心の入り口とも言えます。

「息」という漢字が、「自」と「心」で表されているように、
呼吸を意識して整えることで、自分の心に集中していくことができます。

人間の五感は、外側の世界の情報を集めるようにできているため、

人は、自分の内側の世界を静かに見つめる習慣があまりなく、

心は、外側で起こっていることに反応し、翻弄されやすいものです。

「呼吸を整えて、身体をリラックスさせること」を、意識して行なうことは、
思考「考えること」を、少しの間、休まることになり、

意識は、自然に内側の世界で「感じること」に向けられます。

ストレスとなる感情は必ず、身体のどこかで強く反応しているものです。

「不快」を感じて、ネガティブな感情が湧き上がってきたら、
身体感覚に集中して「何が起きているのか」を丁寧に探ってみる。

みぞおちが痛い、胃がチクチクする、頭が締めつけられる、
足の力が抜けて心もとない感じがする、
背中がズーンと重い、手足の指先が冷える、ソワソワする・・・

身体のどこかに、ネガティブな感情による「感覚があること」に、気づけるはずです。

気になる身体感覚に意識を向けたら、
ずっと、押し込めてきた感情を解き放つために、
これまで避けようとしてきた感覚を「味わって」みる。

悲しみや怒りからくる負の感情は、
「切り離しておきたい」「一刻も早く遠ざけたい」と思ってしまうものです。だから、
どうしても抵抗を感じますが、

自分の意思で、意識を向けている限り、
決して、その感情に飲み込まれることはありません。

不快感を無自覚に排除しようとして、
「感じていること」を無視したり、否定して目を背ける方が、
かえって「怖れ」や「不安」を大きくしてしまうのです。

大切なのは、ネガティブな感情の存在を「認めてあげること」であり、
それが「心の痛み」を感じた自分を「統合すること」に繋がります。

考えると「わからない」なのに、身体は「知っている」こと。

心と身体は、密接に関係している。というより、

「同じ一つのもの」の「二つの側面」と言えます。

身体が変われば、心も変わります。

身体を緩めることで、感情も出やすくなり、

心の深いところに封印された感覚とも、繋がり直すことができるのです。

静かに、ただ「自分を見つめる時間」

ヒプノセラピー(催眠療法)のセッションの中では、

「楽な姿勢で座ること」
「呼吸を整えること」そして、
「身体を各部位ごとに緩めていくこと」を、15分~20分ほどかけて、

ゆっくりと、誘導します。

「不快」に抵抗していた「思考」を休ませ、

「言葉」が自然に落ちてくる場所をあけるように、

身体の緊張を、少しずつ緩めてあげる。

呼吸を整え、感覚に集中できたら、

その感度が熟していくように、
「不快な感覚」に飛び込み、ゆっくりと味わっていきます。

その感覚と一体化するイメージを持って、全身に広げてみるのです。

数秒から、数分、時間の許す限り、丁寧に感じていくと、

「不快な」「痛い」「冷たい」感覚が、ふと、
「心地よい」「解放された」「じんわりとした」感覚へと、変わるときが訪れます。

体内で凝り固まっていた冷たい塊が、
溶けだすように、全身に広がっていくように感じられたら、

それが、感情を味わい切ったサインです。

「感じ切ったあとの感覚」が伝えてくれる、
「身体からのメッセージ」を、自分自身が受け取ることで、

それまで、自分を苦しめてきた感覚は、「本来の目的」を果たすことができます。

「感じること」の先にある変化

セッションの時間を通じて、

言葉だけにとらわれず、
その時々の「言葉が生まれる前の」自分の感覚に意識を向けること、

思考によって、
自分から「切り離そうとしていた感情」に身体感覚を通して触れていくことを、

丁寧に行っていきます。

無理に「言葉」や「気づき」を絞りだそうとすると、
無意識に「思考」を使うことになり、

「しなければならない」に縛られて、行き詰まります。

また、「うまくできないかもしれない」「いま感じていることは、おかしくないか」
そんな疑いがあると、

不安や怖れから身体は緊張します。

「感じていること」に気づいて、受け入れていく「統合」は、
頭(思考)だけでは、どうしても難しくなります。だから、身体(感覚)を使うのです。

そもそも、人は身体がなければ体験ができません。

そして、体験しないと、どんな感情も、生まれません。

身体があることで生まれた感情や感覚は、
自分の「内側で感じている世界」で、すべて「統合」できると言えます。

「感じていること」を、一つひとつ認めていくと、その先に、
自分の身に起こっていること「すべて」に繋がるのです。

頭は、「思い込み」に縛られやすいものですが、

身体は、心の思い込みの枠には収まりきれない動きを持っています。

頭は、心の痛みを避けるために、自分に嘘をつくことがありますが、

身体は、いつも「そのまま」を受け入れている、「正直な存在」と言えます。

何が自然なのか、何が不自然なのかは、
身体が感覚を通して伝えてくれます。

「緊張して身体が硬くなってしまう」ことも、
「気持ちがザワザワして落ち着かない」ことも、

生命にとって「不自然」な状況だからこそ、「不快」だと感じるのです。

心の平安を感じられる「自然な状態」に戻っていくために、

自分の命が身体を通して「教えてくれるメッセージ」に気づき、自分の中に統合していく。

「感じていること」を、思考に頼らずに受け入れ、

「本心が何を求めているのか」を、丁寧にひも解くことで、

「本来の自分の姿」を、思い出すことができます。

身体を緩め、思考を休ませ、感覚のすべてを受け入れて、
内面に「ある」ものに、そのまま気づいていく。

「考えずに感じる」

すぐに「わかろうとしない」ことが、受け取るために必要な「準備」になるのです。

・心の痛みと向き合い、受け入れていく

「自分がなぜ、そうしてしまうのか」

それが、自分にとって良いことであっても、逆に受け入れ難いことであっても、
「無意識に自分が思い込んでいること」には、「その理由」が埋まっています。

筋の通らない、人にうまく説明することも難しい、
それなのに「自分には、不思議と納得ができる」自分にしかわからない世界が、
そこには、あります。

かつての自分には受けとめ切れず、
「あってはならない」ものとして封印した感情は、

心の片隅に置き去りにされ、いつの間にか忘れられていきます。しかし、

消えることのない記憶の痕跡として、
自分でも、よくわからない怖さや不安感、身体に現れた痛みや重さなど、
様々な形に姿を変え、自分の中にあり続けているのです。

不快な何かを「回避しよう」とするとき、
内面の奥に隠した「見たくないもの」に触れることへの怖れが、
「反応」の起点となっています。

無自覚に感覚を妨げてしまう「思考」は、
「○○しなければ」「○○するべき」という信念をつくり出して、
「痛み」に繋がる「不快」を遠ざけようとしますが、

そのやり方では、
痛みを誤魔化すことはできても、痛みの体験そのものを避けることはできません。

むしろ、
信念に縛られた「偏った行動」を続けることは、「痛みの体験」を引き寄せることになります。

「心の痛み」を避けようとする行動は、かえって「痛み」の存在を大きくしてしまい、
避けたかったはずの場所へ引き戻され、やがて、行き詰まってしまう。

痛みの感情をすべて消そうすると、どうしても難しくなりますが、

「痛みを感じないようにしよう」とする抵抗感を和らげることはできます。

それが、痛みと向き合い、受け入れることであり、
不快を「感じている自分」を「統合」していくことなのです。

無自覚に心の痛みを回避するのをやめて、
「痛みがあってもいい」というところまで、たどり着く。

思考を使って「痛みを避けようとしていること」に気づいて、
「抵抗をやめること」に意味があって、

「痛みは、あってもいいんんだ」と受容していく、
その過程そのものが、何よりも大切です。

統合が「どれだけ進んだのか」は、
怖れと不安を「どれだけ受け入れているのか」と同じです。

だから、統合していくことで、人は楽になるのです。

感覚を開いて、
身体の中で反応しているエネルギーを、すべて受け取ったとき、
怖れや不安の奥にある心の痛みの「存在する意味」が変わります。

ヒプノセラピー(催眠療法)を通じて、
「何を感じているのか」「身体はどんな状態なのか」
言葉にならない「自分の内側で起こっていること」を、丁寧に感じていくことで、

自分の中の「忘れていた記憶」や、「身体感覚が伝えていたこと」に繋がり、

不確かだった感覚は、
自分の内面から自然に湧き上がる「言葉」として、「わかる」ようになります。

無意識にしていた「反応」が、
自分の中にある確かな「想い」に変わるのです。

ヒプノセラピー(催眠療法)

現実を「変えていく力がある」から、
「感じている」

不快な感情は、自分の中にある譲れないものを導き出してくれる存在です。

「快」より「不快」の方が意識を向けやすいのも、
それだけ、自分にとって大切なものを指し示しているからと言えます。

求めているものが「ない」という喪失感も、
大切なものから切り離されたという「痛み」も、

自分の中に心からの望みが「ある」からこそ、感じています。

心の「痛み」は、「こういう世界が本当はあるはずだ」という「願い」の裏返しなのです。

心が求める願いを思い出すためにも、
無自覚に「反応」に飲み込まれていることに気づいていく、

そして、「本当は、そうじゃない」「本当に欲しいものは、これなんだ」という本心まで、
「反応の意味」を読み解いていく。

自分の内側にある願いに気づいたとき、

その想いを形にするために必要なものは、
「すべて、自分の中に揃っている」ことにも、気づけるはずです。

心の「痛み」を回避するために、外側の世界に抵抗し続ける生き方から、

心からの「願い」を軸にして、内側の想いを深めていく生き方へと、

生きる意味が、根底から変わるのです。

感情の奥の奥には、
「自分だけの真実」が「感覚」として、ずっと存在して、
「反応」を引き起こす原因となっています。

感覚が示すメッセージをひも解いて受け取ることができたとき、

不快な反応は、その役目を終えます。

もし、どんなに考えても「わからない」のなら、考えることを、一度、やめてみる。

「わからない」のは、
もっと頑張って「どうしたらいいのか」を、考えていたいのではなく、

「本当の気持ち」からの、かすかなメッセージに意識を向けて、

内側に「ある」自分だけの真実「自分が大切にしたいもの」「何がほしかったのか」を、
見つめ直すとき
が来ていると言えるのです。

不快な感情を「あっていいもの」とし、「何とかしよう」とする思考と行動をやめて、

ただただ、そのまま味わい尽くす。

「反応している(感じている)自分を、ただ観る(俯瞰した中立な視点を持つ)」という状態になっていくことで、

不快な感情は、自然な状態に落ち着き、深いところにある「気づき」に繋がります。

ヒプノセラピー(催眠療法)

自分の内側にある思い込み、信念に気づくこと。そして、
自分を縛る思い込みをひも解いて「本当は、どうしたかったのか」を思い出すこと。

すべてを「わかっている」と過信したとき、人はコントロールしたくなるものですが、
人間の「できること」は、ほんの一部です。

「考えること」は、物事を「分断する」ことになり、心は閉じた状態になります。

心を開いて「感じること」で、すべてと「繋がる」ことができます。

本来すべての情報を受け取っている無意識に繋がる。

「気づき」は、突然来たようにも思えますが、

もともと無意識には、いろいろなものが降り注いでいて、
「ずっと、ある」ものに、「ふと、気づいた」だけ、とも言えます。

気づくことができた「本当の想い」に繋がった、その上で、
思考を「どうしたら本心から生きられるか」に使えたとき、

これまで無自覚に「痛みの回避」に使っていた能力を、
人生の目的のために活かせるのです。

本当は「ずっと、感じていた」感覚に、静かに、集中する。

それは、
自分の中に「ある」のに「意識していなかった」感覚に気づくため。

そして、
その奥底にある、埋もれていた感情が教えてくれる
心からの願いに「繋がった」と思える瞬間に、たどり着くためです。

考えることを手放し、感じることに委ねて、

すべてを、無意識に、まかせる。

自分の中の感覚と深いところで「繋がった」とき、

「無意識」だったものが「意識」できるようになり、

より大きく全体像が見えるようになります。

その結果、自分が広がり、「わかる」領域が増えるのです。


●ヒプノセラピーの催眠状態について

催眠状態のときは、通常目覚めているときと同じように理性もあります。

また、「話したくないこと」を、勝手に話したりすることもありませんので、ご安心ください。

*はじめての方には、セッションの前に催眠状態の説明と、簡単な実演をいたします。

 ご不明な点、疑問などございましたら、ご遠慮なさらずにお伝えください。

心と身体のリラックスを目的とした、
「ヒプノセラピーのみ」のセッションも承っていますが、

特に、ご要望のない場合は、
心理カウンセリングを交え、自分の状態を確認しながらセッションをいたします。

また、心理カウンセリングの中で、自分と深く向き合っているときにも、

自然に、ヒプノセラピーを受けているのと同じような状態になることがあります。

催眠状態は特殊なものではなく、

集中して音楽を聴いているときや、何かに没頭しているときなど、

思考を使わず、感覚に浸っている状況では、日常生活でも普通になりうる状態と言えます。

セッションの中で行き詰ってしまったとき、頭を休めたいときなどに、
意識を自分に向け直し、内面に集中する手段として、

ヒプノセラピーを活用していただければと思います。


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