なぜ、生きづらいのか

なぜ、生きづらいのか、ありのままの自分を受容する

【統合】 自分を受け入れる  

嫌いな自分を「変えよう」とするのではなく、

心の奥にある本心を「わかろう」とする。

生きづらさを感じ、ありのままの自分を見失って、
苦しくなる理由の根っこには、

自分自身が「自分をどう思っているのか」が、強く結びついています。

「変わりたい」「成長したい」
「乗り越えたい」と頑張っても、

思うようにいかず、

どうしても行き詰まるとき、

心の奥には
「今の自分ではダメだ」という
自己否定があります。

受け入れられない
「見たくない自分の姿」であっても、

すべてを否定するのではなく、

何を思って「そうしているのか」を、

自分自身が心底「わかってあげる」と、

そこには、

自分の本質と繋がり、
本来の姿を思い出す
ための、

「大切な想い」が見つかります。

生きづらさは、どこから来るのか

「生きづらい」「生きている意味がわからない」
「自分が嫌い」「自分には価値がない」と思ってしまう
「もう、すべてが嫌だ」と絶望すら感じる・・・

そんな苦しみや不安、迷いの渦中にいるとき、

人はどうしても、
その原因を、まわりのせいにして嘆いたり、

思い通りにできない自分を責めて、

いつも何かを「否定」しているものです。

人生がうまくいかず、先が見えない苦しみの中で、

「不満」や「不足」にばかり目を向けて、

嫌なこと「すべて」を拒絶しようとすると、

心の奥にある
「本当に求めているもの」からも意識が離れてしまい、

どこにも、たどり着けなくなります。

たとえ、それが、
苦しくて、飲み込まれてしまいそうな「負の感情」であっても、

感じている気持ちを、
「邪魔な感情」「思ってはいけないこと」と否定し、なくそうすることは、

結果的に、
「つらい状況から抜け出す糸口」まで見失うことにもなるのです。

身体に感じる痛みや違和感が、ケガの場所を教えてくれたり、
治療や静養を求めているサインであるように、

心の痛みや苦しさであっても、
何らかの意味があって、自分に必要だから「ある」はずです。

「ある」ものを「ない」ことにしようとするから、苦しくなり、

「ある」のに認めないから、さらに、つらくなってしまう。

なぜ、生きづらいのか

行き詰まりから、少しでも早く抜け出したいはずなのに、
もがけばもがくほど、苦しくなってしまうのなら、

「見たくない」自分の姿も、「触れたくない」感情も、
その存在すべてを否定するのではなく、

「ある」ものは「ある」として、受け入れていくことで、

自分の「内側で何が起きているのか」に気づくことができます。

自分を苦しめる感情、「生きづらさ」は、

自分の存在や、生きること自体が嫌なのではなく、

「今の生き方を、これ以上続けたくない」という思い、そして、
「自分を生きたい」という願いがあるからこそ、感じるはずです。

「生きづらい」という気持ちが
「自分の人生を生きていないこと」を、自分に伝えているのなら、

無理に抑え込もうとしたり、無視するのではなく、

そんな感情が、「ある」自分のことを、他でもない自分が許してあげることが、

結果的に、
生きづらさから抜け出すことに繋がるのです。

自分が自分を否定している

人は「自分へのひとり言」を頭の中で繰り返しているものです。

知らず知らずのうちに、心の中でつぶやくように、
「自分に対して言葉を投げかけている」のです。

無意識に繰り返される「頭の中のひとり言」を意識して観察してみると、自分自身が、

「自分のことを、何だと思っているのか」
「自分のことを、どう扱っているのか」を知ることができます。

「何やってるんだ」「どうするんだ」「また、やってしまった」
「ダメなやつだ」「もっと、よく考えろ」「そんなことも、できないのか」

生きづらさを感じる心理状態のとき、頭の中では、
「自分へのダメ出し」をして、自分の「したこと」を否定し、
思うようにできない自分を責める言葉が、延々と繰り返されています。

他の誰かと比べて「もっとやらなくては」と追い込んだり、
失敗したときには「情けない」とがっかりしたり、
良くない出来事に会うたびに「きっと自分のせいだ」と思い込んだり・・・

それは、自分の内側の「もう一人の自分」が、
「行動」だけでなく、「考え方」や、思っている「気持ち」まで厳しく監視し、
それこそ、一日中見張り続けている状態と言えます。

無自覚な心の声が、
「自分はダメだ」「自分が悪い」と自分を責めてしまうとき、
自分で自分を傷つけ、自分自身を追い込みます。

「生きづらさ」は、「自分で自分を否定すること」で生まれる感情なのです。

・「否定」は「分離」を生む

自分で自分を否定して、責めていると、まるで、
まわりと自分の間に壁ができるかのように「自分だけの世界」がつくられ、
その壁を「殻」にして閉じこもり、外の世界と自分を隔てるようになります

「自分の殻」の中で「自分を責める言葉」が繰り返されることで、
殻に閉じこもった状態こそが自分の姿だと思い込んでいくのです。

「自分をどんな人だと思っているのか」というセルフイメージは、
実際に体験した回数よりも、頭の中で感情を味わった回数によって定着するものです。

無意識につくりあげた「自分の殻」の中では、
「外の世界」と「殻の中の自分」との間の壁が「フィルター」のような存在となり、
(殻の外で)起こった出来事や、人からされたことを、
自動変換で意味付けをし、「自分の解釈」を通して世界を見ることになります。

自分を責める殻に閉じこもってしまうと、何が起きても
「自分が悪い」「自分のせいだ」と思い込み続けてしまうのです。

「フィルター越し」に、まわりの世界と接していると、

実際に「何が起きたのか」「何をされたのか」を、
冷静な視点で、客観的に判断できないまま、
「思い込みの枠」に従って物事を受け取り、

自分の解釈を「やっぱり正しい」と、強化することになります。

たとえ、まわりの人から優しくされたり、親切にしてもらって、
「良いこと」が自分の身に起きた場合でも、

バカにされているのかもしれない
自分のせいで、かえって気を使わせた
良いことなど、そう続くわけがない
○○な気がする、○○に違いない

そんな「解釈」をして、無意識に「頭の中で変換された通り」に受け取り続けます。

解釈の仕方(フィルターを通した捉え方)が変わらないと、
「現実世界で何が起きているのか」に関係なく、
思い込みの枠を通した「自分にとっての事実」が繰り返されるのです。

・自分が自分にするように、まわりはしてくる

もし、まわりの誰かから
「責められたと感じる」のであれば、

その「誰かの言葉」は、
「自分自身が自分を責める言葉」と同じはずです。

自分が自分をどう扱っているか、それは、

そのまま「まわりの人たちの自分への接し方」となります。

自分を粗末に扱っていると、まわりもそうしてきます。

それが「自分に相応しい」と思っているように、まわりも「同じこと」をしてくるのです。

他の人から「嫌なことをされた」場合でも、

「自分に落ち度があるかもしれない」「そんな風にされても仕方がない」と、
心のどこかで思い込んでいる「自信のなさ」が反応してしまって、

無意識に「不愉快な扱い」を「受け取って」しまう。

「気にしなければいい」「拒絶すればいい」「相手にしなければいい」
そんなことは、わかっている。なのに、

身体は緊張し、頭は真っ白になり、
傷ついた自分を守る言葉すら、うまく出てこない・・・

生きづらさを感じる苦しみの渦中で、
誰よりも、自分を嫌い、自分を責めているのは、自分自身と言えます。

自分とまわりの世界との関係は、

深いところで、自分が自分のことを
「どう思っているのか」「どんな存在だと信じているのか」によって、
つくられている
のです。

たとえ、人に何をされたとしても、
相手が「何を思ってそうしたのか」は、想像するしかありません。

自分のつくった殻の中で、想像(イメージ)に振り回されている限り、
まわりの現実とズレた状態で、物事を見ることになります。

本当ではないもの「想像」に、自分を無理に当てはめて行動するから、
空回りして、苦しくなっていく。

ただ、どうしても、
「自分の殻」「無意識のフィルター」「思い込みの枠」は、
自分の価値観や信念と一体化して、意識しにくい
もの
です。

だからこそ、
生きづらさから抜け出すために、意識するべきなのは、
まわりの「出来事」や「相手」ではなく、

「どう解釈しているのか」「何を信じているのか」という、
自分の「内側の世界」なのです。

「自分を責める言葉」は、いつ生まれたのか

自分で自分の姿は、見ることができません。

自分の存在を認識するためには、

自分を見てくれる「他の誰か」が必要になります。

当たり前のように信じている自分の姿「自分像」は、

「まわりの人から、どう言われているのか」

「これまで、どんな人間として扱われたのか」といった、

まわりの人の自分に対する反応をもとに、つくられています。

自分は、どんな存在なのか

自分のいる世界は、どんな場所なのか

自分と世界は、どんな関係で成り立っているのか

すべての認識は、
自分と、自分以外の誰かとの係わり合いの中で生まれます。

そして、その「はじまりの記憶」となるのは、
「生まれ育った家庭環境」であり、

多くの場合「両親との関係」となります。

幼い頃に、それこそ、もの心ついたときには、

すでに、何かを思い込み、

「殻にこもった自分」を自分だと、

疑うことなく信じて、生きているのです。

「ここに、いる」ために、切り捨てる

両親や身近な人が、
自分のことを「どう扱ったのか」だけでなく、

幼い頃の体験を、
自分自身が心の奥底で「どう解釈して受け取ったのか」が、

その後の人生の中で、
自分の価値を「どう思い込んでいるのか」に大きく影響します。

「どんな環境だったのか」「何をされたのか」は、受け身ですが、

「どう感じたのか」「何を思ったのか」は、
それが幼い頃の記憶であっても自分が主体なのです。

幼少期の体験を通じて、
少しずつ視野を広げ、自分を確立していく中で、

子どもは、親に「されたこと」「してもらったこと」を、すべて受け取ろうとします。

幼い頃は誰でも、
大切な人が「喜んでくれること」が、何よりも幸せであり、
身近な人の「言いつけを守ること」が、安心感を得る方法と言えます。

居場所を失わないためには、
まわりの要求や期待に「自分を合わせる」必要がある
のです。

生きていくために周囲との「繋がりを保つこと」は、同時に、

「うまく順応できた自分」と「どうしても合わせられない自分」に
「自分を判別すること」になり、

自分の能力や性格についても、
「良い・悪い」「優れている・劣っている」の評価や
「好き・嫌い」が自然に生まれます。

そして、当然、
「できる自分」「認めてもらえる自分」を好きになり、
「できない自分」「認めてもらえない自分」は嫌いになっていくのです。

・「大切なすべて」を、受け取るために

純粋な子どもの心は、

自分には責任のないことも、何が起きたのか背景を知る由もないことも、
とうてい受容できないことさえも、うまく理解できません。

目に映るもの「すべて」を受けとめようとして、
無意識に「自分の中」に原因を探してしまいます。

おかあさんが大変そう、笑顔でいてくれない、
かわいそう

おとうさんは家にいない、いつも不機嫌、
つらそう

両親の仲が悪い、家の雰囲気が暗い、
家庭が息苦しい

気がつくと「当たり前」に目の前にあるのに、
「本心は」見たくないと思っている光景があって、

その理由を自分の中に背負い込んだとしたら、

自分のいる場所に安心感を感じることも、
自分を大切な存在だと信じることも、あり得ないはずです。

さらに、行き場のない「負の感情」は、
落としどころを求めて、さまよい、
「自分を責める言葉」まで、生み出してしまいます。

「自分のせいかもしれない」
「いけないことをしたからだ」
「ボクが悪い子だから」
「ワタシができなからダメなんだ」

限られた小さな世界で、
無理に見つけ出した「答え」は、

自分に罪を着せ、自分を嫌いにしてしまう。

自分自身がつらいはずのに、
苦しんでいる自分を、さらに追い詰め、責めてしまうのは、

目の前の「悲しい出来事」と、
心の奥底にある「罪悪感」が強く結びついているから
です。

何も知らない、何も出来ない、小さな存在が、

唯一「自分で、どうにかできること」である「自分の存在すべて」を使って、
「不快な現実」を受けとめるには、

「自分が悪い」「自分のせい」と思い込み、
自分を生贄のように差し出して「自分を責める」しかない
のです。

両親からの愛情を受け取るために

家族の一員であり続けるために

大切な人に愛されるために

大切な人から嫌われないために

自分の存在を歪ませてでも、
大切な繋がりを守るために、何かを思い込み、何かを決める。

幼い自分の「純粋な思い込み」は、
「自分は、どんな人なのか」というセルフイメージと一緒に、
「まわりに適応した姿」になるための「自分の殻」をつくってしまうのです。

・「存在を許されない」自分の姿

身近な存在である「親の考え方や価値観」は、気がつかないういちに「基準」となり、

「そのまま」受け継いだり、
逆に「あんな考えは嫌だ」「親のようにはならない」と反発したりしながら、
自分の価値観や信念となる「思い込み」となります。

もの心ついた頃には、すでに芽生えていた「思い込み」は、
それがあるから「ここに、いられる」と、無意識に信じてしまうほど、
「自分の存在」にとって大切なものであり、

見方を変えると、
人は、「見せられない自分」を「切り離しておく」ために、
思い込み」でつくった「自分の殻」から出ないように生きているとも言えます。

「当たり前」のように身につけた
大切な価値観や、自分が果たすべき役割を、

もし、「守れない」のなら、

それは、
居場所が足元からなくなる怖れとなり、自分を追い詰めることになる。

「大切な人の期待に応えられない」

「自分は役に立つことができない」

「まわりから必要とされていない」

そんな、心の痛みを感じた悲しみや、怒りの原因を、

まわりの環境や、他人のせいだけにできず、

否定的な感情の矛先を自分に向けたとき、

私たちは、自分を「ふがいない」と思い、
「罪悪感」や「無力感」「無価値感」を感じてしまうのです。

特に、幼い記憶の中の、
両親から嫌われるような自分、家族に受け入れられない自分は、
見たくもない「ここに存在してはいけない自分」となって、
自分の存在を根底から脅かします。

だから、
「不都合な自分」「気に入らない自分」「嫌いな自分」は、「どうにか」しなければいけない。

自分を否定する気持ちが生まれ、
隠さなくてはいけない自分の姿は邪魔になり、
すぐにでも、自分を変えなければいけなくなります。

不安や罪悪感から逃れるためには、

成長したり、乗り越えたり、人から評価されることで、手に入る「自分を隠す殻」と、
ほころびが出ないように監視する「もう一人の自分」が必要になる
のです。

いつでも自分を厳しく見張り、まるでコントロールするかのように、

頭の奥で聞こえていた
「自分へのひとり言」は、もとは「親からの言葉」と言えます。

心の奥では「親との関係」が、生まれてからずっと、続いているのです。

ただ、その声が「言っていることの内容」は、
「親に言われたこと、そのまま」ではなく、

無意識の「思い込み」によって、自分自身がつくり出したものなのです。

「まわりの人に見せられない」「誰からも認めてもらえない」と思い込んでしまった、
自分の姿に対して、

「このままではいけない」「何とかしなくてはいけない」という気持ちを、
あまりに強く持ちすぎると、

もともと存在したはずの「ありのままの純粋な自分」は、
その存在すら否定されることになります。

どこにも居場所がない自分は、存在を隠さなくてはいけなくなり、

弱音を吐くことすら許されない、
生きづらさを生み出す「殻に閉じこもった生き方」を、
自分に強いることになるのです。

・「自分の存在価値」を決めるのは、誰なのか

「おとうさんと、おかあさんと、わたし」という、
小さくて、純粋な世界にいる「家族の中の自分」を通して、

無意識に刻んだ「記憶」は、心の深いところで自分の「存在価値」と結びつきます。

生まれ育った環境の中で、自分は自分を何だと思ってしまったのか。

私たちは、
「自分の行動」そして、「自分の存在そのもの」が、
まわりの人、特に、「自分が幸せにしたいと願っている人」を「幸せにしているか」
絶えず感じながら生きています。

大切な人が笑顔でいてくれる。ただ、それだけで、
自分は「ここに、いてもいい」という安心感を得られるものです。

目の前の「大切な人」が(自分から見て)「幸せだと思えるか、どうか」は、
そのまま、「自分の存在価値」となります。

幼い頃に、気がつかないうちに信じてしまった、

「自分は(まわりの人にとって)どんな存在なのか」という思い込みは、
その後の生き方に、ずっと影響を与え続けてしまうのです。

自分の内側で無自覚につくり出された、
この世界は「自分にとってどんな場所なのか」「自分に何をしてくるのか」という信念は、

「家族と自分」という小さな世界から始まり、成長とともに、
「世界(社会)と自分との関係」にまで広がっていきます。

両親との関係の中での
「自分の扱かわれかた」「言われてきたこと」は、ごく自然に、

社会という世界の中で
「自分はどんな存在なのか」「まわりは自分に何をするのか」に変わっていくのです。

幼い頃につくられた「自分の殻」は、

その人の生き方の基本となり、
すべての人間関係をつくりあげ、
社会とのつながりとなって、

自分の存在を支えてくれながら、

でも、自分を縛りつけることにも、なってしまう。

なぜ、生きづらいのか

自分が「愛される存在」として、
世界は助けてくれる、応援してくれる、守ってくれる、理解してくれる場所なのか

まるで、「罪びと」であるかのように、
罪悪感や無価値感を背負って、不自由に生きることを強いられるのか

生まれ育った環境、家族との関係の中でつくられた、
自分の扱われ方や、当然のように背負う役割は、
気がつかないうちに自分を取り巻く殻となり、ずっとあり続け、
それが「自分の生き方」だと、疑うことなく信じているのです。

自分を受け入れるために

どんな自分でも、自分がその存在を許してあげる

自分の居場所を守るために
何かを達成したり、何かができるようになろうと
「今の自分に足らない何か」を
「自分の外」から見つけ、つけ足そうとしている限り、

もし、せっかく積み上げたものがなくなったら、
通用しなくなったら、否定されたら、簡単に「終わってしまう」
そんな不安や怖れは、心の奥に残り続けます。

最初に埋めようとしたはずの欠乏感と罪悪感は、いつまでも埋まらないのです。

なぜ、自分を否定して責める考え方が生まれたのか。
「自分を認めたくない理由」「どこが、ダメなのか」

「生きづらさ」を生み出す罪悪感の理由は自分の中にあります。

「自己否定」や「自分責めの言葉」に気づいたのに、やめられない。
やめられると思えない、変えていくこと自体に抵抗を感じてしまうのなら、

そこにある「自分のことが嫌いな理由」を深く見ていく必要があるのです。

無意識に、その存在すら否定してた自分

他の人には、どうしても見られたくない自分

受け入れられない、何とかして変えたい自分・・・

そんな「嫌いな自分」を見つめ直すと、そこには、

「ダメでない自分」なら「叶えられたはず」だと思い込んでいる
「願い」「世界観」が見つかります。

「自分という存在がいる」それだけで叶えられたはずの
「みんなにしてあげたかったこと」

罪悪感、欠乏感、自分に足らない感覚を生み出した感情の根っこには、

「おとうさん」と「おかあさん」との間に「自分」がいる。

それだけで叶うはずだった世界、ずっと抱えている「想い」があります。

「想い」が「ある」のに、その成果が目の前に「ない」こと、

「自分が思うように」家族を幸せに「してあげていない」ことから
生まれた
「罪悪感」が、

自分責めをしてしまう、自分を許せない気持ちの奥底にはあるのです。

自分の存在を根底から脅かす感情である「罪悪感」は、

自分よりも大切な誰かの幸せを願う「純粋な想い」があるからこそ感じるはずです。

「罪悪感」と「純粋な想い」

相反するように思える2つの感情は、
もとは、心の奥底の「同じ場所」から生まれた感情と言えるのです。

「生きづらさ」から抜け出すために「自分への誤解」を解く

決して消えることのない大切な「想い」のためにも、自分を責めることはやめる。

どんな自分も、他の誰でもない自分が許すこと、受け入れることが、
生きづらさから抜け出すためには必要です。

無意識にしていた「自分を責める言葉」に、まずは気づいていく。

そして、自分を大切にするために、やめていく。

自分を責める言葉を、自分を理解し、認めてあげる言葉に変えていく。

「よくやっている」と、自分を認めるために、
「していること」の結果だけでなく、「しようとした」気持ち、意図を汲み取って、
これまで見えていなかった側面に目を向ける。

「ない」ものに目を向けるのではなく、

「ある」ものに気づいていく。

あれができない、これが足りないと自分にないものを探している限り、
自分へのダメ出し、自分責めは終わりません。

誰かへの優しさがあるから、思うようにできない自分を悔やむし、

求めている世界があるから、その力を発揮していない自分が許せないのです。

「嫌な自分」「ダメな自分」「変えてしまいたい、見たくない自分の姿」を受け入れ、
その奥にある意図「なぜ、そう思うのか」を掘り下げていくと、

大切な「想い」である、みんなに「してあげたいこと」が見つかります。

生きづらさの原因だと思い込んでいた「受け入れ難い自分」も、心の奥では、
みんなを幸せにしたいと願っている。なのに、

そんな「大切な想い」を見失っているから、
どうしても自分のことが許せなかった
のです。

これまで、ずっと感じていた生きづらさの「本当の理由」を知ったとき、

その根底にあった「罪悪感」は、
心から人にしてあげたい「純粋な想い」へと繋がっていきます。

譲れない「想い」を叶えるためにも、
どんな自分も受け入れて、
その奥の意図「本当はどうしたかったのか」を、わかってあげる。

切り捨てようとしていた自分を、大切に拾い集めて、

どんな体験も、どんな感情も、そのすべてが自分だと、
心の底から「受容できる」こと。

それこそが、最大の「自分への信頼」です。

そして、その先にこそ、
「想い」を軸にした、本当に望む生き方を、
自分自身に、自由に、体験させてあげられる。

そんな、心がずっと望んでいた世界が広がっているのです。


自分を責めるのも、認めてあげるのも、自分

「人から認められる自分」になってから
動こうとしても、

「そのとき」は、
なかなか来ない。

だから、

どんな自分も好きになる。

そのための最初の一歩が、

自分を「わかってあげる」こと。

「思い通りにならなかった」自分に、
ダメ出しをするのをやめて、

「それをしようとした」意図、
根っこの気持ちを理解すること。

生きづらいのは、

自分を責めてしまうのは、

心の奥に、大切にしたかった想いがあるから

想いが、大切な人に届いていると思えないから

大切な人を、幸せにできなかったから

受け入れたくない目の前の現実を、

知らず知らずのうちに、

自分が「ここに、いる」ことの罪悪感として、

受け取ってしまった。

生きづらさの根っこにある「想い」は、

自分の存在と一緒に、ここにあるはずだった「世界」と
繋がっている。

だから、

ダメな自分の姿を受け入れて、

その根底にある想いにたどり着いたとき、

みんなに「見せてあげたかった世界」がわかる。

自分のことを大切に受けとめ、

「根っこにある想い」を理解する姿勢が、

自分への信頼となる。

これまで見捨てていた、
見えていなかった側面を受け入れる。

自分を見守る自分の視点を、優しくする。

自分が「欲しかった言葉」を、
自分にかけてあげる。

それが、自分の想いを信じることに繋がる。

自分が「自分に向ける言葉」を変えていけば、

「自分のいる世界」は、変わる。

いらない自分、ダメな自分はいない。

だから、自分を否定する必要はない。

見せたくない自分の存在を、怖がらなくてもいい。

「隠しごと」があると、人は「心を閉ざす」

そして「自分の殻」にこもる。

見たくない自分の存在、

人に知られたくない自分がいると、

隠しごとが増え、可能性すらも狭めてしまう。

「思い切って行動できない」
「好きなものに飛び込めない」そんなときは、

「うまくいかないこと」
「相手に受け入れられないこと」が怖いのではなく、

「失敗した自分」を受け入れられないから

「ダメだった」自分は好きになれないから

「心の奥の傷」には、もう触れたくないから

まわりから受け入れられる自分は認める、けれど、

否定される自分は許せないとしてしまうと、

人に見せられない自分の姿から、

ずっと、目を背けることになってしまう。

素の自分、ありのままの自分は、どんどん見せられなり、

隠さなくてはいけない自分は、増え続ける。

怖さや不安は消えることなく、ずっと自分についてくる。

頑張ること、向上心が、
自己評価の低さ、自己否定からきている限り、

欠乏感は消えない。

生きづらくなる、人生を苦しくしている「頑張り」は、
言い換えると、

「自分以外の誰か」になろうとする頑張り。

「ない」という「痛み」を埋めるのではなく、

「想い」が「ある」という世界を生きてみる。

「想い」を軸にした体験を積み重ねることで、
自分の価値をあげる必要がなくなり、怖さが薄れる。

結果として「本当にやりたいこと」を、
自然に出来るようになる。

すべての自分を好きになったら、
好きなものに飛び込むのも、
今よりずっと楽に、軽やかに行けるようになる。

どんな自分でも、許されるのだから

想いは、消えないのだから

居場所は、なくならないのだから

自分の中にある「想い」を受け入れたとき、

自然に「あるもの」に意識が向き、

自分を生かしてくれた、まわりの存在にも
「感謝」できるようになる。

自分と世界との関係も、自然に優しく変わってくる。

見たくない、受け入れられない自分も、

「罪悪感」と一緒に、大切な「想い」を握りしめて、

悲しくて、悔しくて、自分を責めている。

だから、

嫌いな自分、認められない自分の想いをわかってあげて、

大切な自分の一部として、受け入れたとき、

これまで、

「なぜ、生きづらかったのか」が、わかる。

心の中に、ずっと抱えてきた

おとうさんと、おかあさんと、わたしとの間に

「ある」はずだった世界。

自分という存在が「ここに、いてもいい理由」が、
もし、あるのなら、

それは、

大切な「想い」が自分の中に「ある」から。

何よりも大切な自分の中の「想い」を知るために、

他でもない「自分が自分を認めて、受け入れる」

それが、

自分が自分に、いまから、してあげられること。


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