Arriveが大切にしていること
自分の内側にある
「本当の気持ち」を大切にすることができれば、
自分を大切にすることができます。
心が求めている「幸せとは何か」に気づくために、
そして、
「自分を生きる」ために、必要なこと。
人は「気持ち」が満たされると、
幸せを感じるものです。
「感じていること」「思ったこと」を、
無視したり、
軽く扱うことなく、
丁寧に耳を傾け、
大切に受けとめてあげる。
自分自身が
「自分の気持ちに寄り添うこと」で、
「本当に欲しいものは何か」に、
気づくことができます。
人が幸せに生きるために、「大切なこと」
「何が自分にとっての幸せなのか」
その答えは人それぞれ違うはずですし、それこそ「自分にしかわからない」ものです。
自分の望む「好きな生き方」をして
「本当に幸せ」になるためには、
「心からの望み」を知ることが、何よりも必要です。
そして、求めている「答え」は、自分の内側にあります。
自然に湧き上がる「感情」は、
何が好きで、何が嫌で、何が欲しくて、何を失いたくないのか、
自分が「何を望んでいるかを知る」手がかりとなります。
感情は「自分にとっての幸せ」を教えてくれる存在なのです。
自分の気持ち、心の声を丁寧に受けとめ、
「本心から求めていること」を、「自分にしてあげること」で、
人は、「生きている実感」を得られるはずです。
その時、その場所で
「どう思ったのか」「何を感じたのか」「どうしたいのか」に意識を向けて、
感情が教えてくれる「欲求」が満たされることで、望みが叶えば、
心は満足し、「幸せを感じる」ことができます。
「気持ちを大切にすること」は、
「自分の人生を大切にすること」に繋がるのです。
「我慢」は、気持ちを「無視すること」
もし、「本当の気持ちに従っていない」としたら、
「今、何をすべきか」がわからず、
目的を見失ったまま、漂うように生きることになります。
ですが、自分が「何を望んでいるのか」を明確に把握し、
いつでも「心からの幸せ」を感じながら過ごすことは、思う以上に難しいものです。
素直な気持ちを大切に生きれば、自然に幸せな毎日を送れるはずなのに、
私たちは、まわりとの関係に気を使ったり、
ときには、大切なものを守るための手段として、
無意識に感情を抑えたり、気持ちをコントロールしようとしているのです。
「本心」にフタをして、「我慢」をした経験の積み重ねは、
「自分らしい欲求」を少しずつ削り取り、
人は、「許される範囲」で気持ちを満たす生き方を、
無自覚に、でも「ごく自然に」身につけていきます。
本当は「何が欲しいのか」に目を向けないまま、
感情を上手に抑えるための知識を増やしながら、
「いつか」
「何らかの形で」
「報われるに違いない」と、
心のどこかで漠然と期待し、
そうすることが当然のように我慢を繰り返す・・・
そんな本心を見失った生き方を続けていると、
感情や感覚は、少しずつ鈍くなってしまいす。
本当は「感じているはずの感情」を無視していると、人は、
「感情が湧き上がること」自体を、抑えるようになるのです。
無意識にしていた我慢は、感情を鈍らせ、麻痺させてしまい、
やがて「好きなこと」や「本当に欲しいもの」すら、わからなくなってしまいます。
・自分の軸と他人の軸
自分の気持ちがわからなくなってしまうと、人は代わりに、
「まわりからの要求を満たすこと」を優先してやり始めます。
自分が「どうしたいのか」よりも、
他人に「どう思われるか」を考えてしまうのです。
自分の気持ちより、他人の評価を意識してしまうと、
「こうするべき」「こうするもの」といった思い込みで、頭の中はいっぱいになり、
「気持ち」は後回しになるか、最初から「ない」ものとして扱うことになります。
本当は「ある」はずの気持ちを抑え込んで、隠してしまうことは、見方を変えれば、
自分にも、まわりに対しても「嘘をついている」のと同じです。
まわりに合わせ、その場をやり過ごすための、
「本心を偽った、窮屈な生き方」では、
いつでも不安につきまとわれ、落ち着かず、次第に自信まで失っていきます。
本来、「自分の軸」となるはずの「自分の感覚」を信じていないと、
自分に自信が持てなくなるのです。
無自覚に気持ちを抑圧した、
「満たされない生き方」が慢性化してしまうと、
いつの間にか「義務感」だけが残り、一人歩きし、
「しなけばならない」決まりごとが、自分を縛りつけ始めます。
「他人の軸」である「人の目」ばかりを気にして、
「無意識の我慢」を繰り返してみても、
その「頑張り」と、「充実感」「楽しさ」は、うまく結びついてくれないのです。
我慢して抑え込まれた感情。そして、
見なかったことにして押し殺された自分。
重苦しい出来事が繰り返されるたびに、自分のことが嫌いになり、
まわりとも壁をつくりはじめ、やがて、行き詰まってしまう。
感情を抑え、心を閉ざしている状態に気づいて、
まわりに適合するための「我慢」の奥にある
「見失っている本心」「心からの望み」「本当の欲求」と向き合わない限り、
「自分の人生」を生きている実感は、いつまでも得られないのです。
・気持ちを抑えても
「思い通りにならないこと」は、なくならない
まわりの空気を読み、どんなに相手に気を使ったとしても、
他人の感情まではコントロールできません。
そもそも、他人の感情の責任はとれないのです。
また、「自分自身が何を感じるのか」も、コントロールしきれるものではありません。
だから、どうしても、すべてを思い通りにはできない。
さらに、まわりのご機嫌をとり続けてばかりでは、いつまでも自分は満たされません。
「我慢が必要な場合」も、もちろんありますが、
それは、(重要な大会のために、一定期間だけ食事制限をするなど)
「そのとき」は我慢することで、
もっと大きな目標を目指したり、
(みんなで使う遊具で遊ぶために、順番を守るなど)
より効率良く欲求を満たす方法の中に、
「一時的な」我慢が必要になるだけで、
「我慢」することが、「目的のすべて」になることはないはずです。
慢性的に「我慢」をする生き方では、いつでも緊張が解けず、
気がつかないうちに、心や身体に負担をかけ続けてしまいます。
「幸せ」になるために、気持ちを「我慢」しているはずなのに、
「満たされない」感覚ばかりが積み重なり、
次第に「自分がどうしたいのか」まで見失っていく・・・
行き詰まって、思い通りにならないときにこそ、
丁寧に自分の気持ちを聴いてあげて、
「本当は何を望んでいるのか」を思い出す必要があるのです。
「感情の責任」は、いつでも「自分」にある
自分の感情を「どうするのか」を、決めているのは自分です。
たとえ、それが、
自分以外の原因、
誰かのせいで噴出した感情だとしても、
原因となった何かのせいにしている限り、
自分にはどうすることもできない
「他人の軸」「他人任せ」の状態になります。
どうしても、
その「相手のせい」にしか思えなくても、
感情を投げ出すように「誰かにぶつけて終わり」にしてしまうことは、
自分の感情に「無責任」になってしまい、
気持ちを粗末に扱っていると言えます。
そもそも、心のどこかで、
「他人の感情」を「自分のせい」かもしれないと思い込み、
その責任を無意識に感じて、背負っているから、
「自分の感情」も、誰かに責任を取らせたくなるのです。
意識を自分の内側に向け、本心と向き合い、
「感じている気持ち」「本当は何を求めているのか」を、
「自分の軸」に戻して行動しない限り、
いつまでも周囲の状況に振りまわされ、何も得られません。
また、誰かに気持ちを満たしてもらうために、
拗ねてみたり、傷ついている姿を見せることも、
やり方によっては、
「自分の思うように相手に動いてほしい」という期待と、
「自分に都合良くコントロールしたい」という不誠実さが見え隠れしてしまい、
結果として、
相手の態度によって人生が左右される、
自分以外の誰かに「依存した生き方」になってしまいます。
自分が「自分の味方」でいる
いつまでも悔いが残ったり、
どうしても心のモヤモヤが消えてくれないときほど、
自分以外の誰かの価値観を満たすための
「他人に認められるための選択」をしているものです。
自分が「欲しいものは何か」を、
他でもない自分自身が、「本当に」理解しているのか。
無理に自己主張をしたり、我がままに振る舞う必要はありませんが、
まず、自分の気持ちを最優先して聴いてあげる(後回しにしない)こと。
その上で、「その時できる最良の選択」を探せば良いはずです。
たとえ、うまくいかない場合でも、
悲しさや、悔しさにもフタをしないで等身大に感じていることで、
「自分が自分に」裏切られたり、見放される心配はなくなるので、
「自分への信頼」は失いません。
自分に嘘をついている感じ、後ろめたさもないので、
感情の浮き沈みはあったとしても、素直な心で過ごすことができ、
自分を好きでいられるのです。
「自分のことが好きな人」は、無意識に、でも、当たり前に、
自分の気持ちを尊重し、自分を大切にできる人と言えます。
自分を信じるためにも、まず、どんな感情も否定しないで受け入れる。
「ある」ものは「ある」
気持ちにフタをしてしまい、「ない」ことにして、隠そうとするから、
自分のことが、わからなくなってしまう。
自分が採用していないだけで、
心の中には、好きなことも、やりたいことも、いつもたくさんあるのです。
・自分と繋がるから、まわりと調和できる
自分の内側に何があったとしても、どんな気持ちになっても、
それを否定することなく感じていられること、
そのときの感情を「感じている自分」を、 隠さずに人に見せられることは、
自分を「大切な存在」だと受け入れているからこそ、
できることだと言えます。
自分が、自分でいられる。
そんな、
「自分に対する安心感」があれば、
まわりからの好意も、素直に受け取ることができ、
嫌だと思う場合でも、自分の意志を適切に伝えられるはずです。
自分自身が「自分の気持ちを尊重しているか」は、
「自己肯定感の高さ」にも繋がるのです。
また、感じている気持ちを否定してしまうとき、人は同時に、
「そんなことを思っている自分」の人格すらも否定してしまうものです。
人に見られると困る「不都合な自分」は、
いつでも「見つからないように」抑え込んで、
「そうならないように」コントロールしなければなりません。
さらに、自分が「自分に許していないこと」「してはいけないこと」は、
当然、「他の人がすること」も許せないため、
自分だけでなく、まわりの人にも抑圧した生き方を強要して、
身のまわりを、気の抜けない厳しい世界にしてしまいます。
「自分の我慢」は、どうしても「他人への不満」になってしまうのです。
「自分が自分にしていること」以上に、「他人に何かをしてあげよう」としても、
どこかで必ず不満が漏れてしまい、無理がきかなくなります。
「まわりとの関係」を良くしたいと思うのなら、
まず先に、
自分と「自分の感情との関係」を良くする必要があると言えます。
自分を偽ることなく、正直な気持ちで生きるために大切なこと、それは、
「本当にしたいことを、する」こと。そして、
「本当はやりたくないことを、やめる」ことです。
もし、
「今、何がしたいのか」が、わからなくなるほど、
心が疲れて、感覚が麻痺しているのなら、
まず、
「本当はやりたくない」のに「していたこと」に、気づいてあげる。
そして、
「我慢していた気持ち」に、寄り添ってあげる。
今の自分が「気づいた範囲」から、
素直な「本当の気持ち」を見つけ、大切にしていく姿勢を持つことで、
「自分は、どんな扱いをされる人なのか」
自分が自分に対して感じる「存在価値の認識」自己肯定感は、自然に上がり、
「本当の望み」とも、繋がっていられるのです。
・すべての感情を受けとめる
自分の「気持ちを大切にする」と言っても、
自分に「やさしくすること」と、自分を「甘やかすこと」は違うため、
気をつける必要があります。
怒りや悲しみ、怖れといった「受け入れ難い感情」を、
自分自身の気持ちとして「受けとめること」をせず、
押し付けるように他人にぶつけ、相手のせいにして、「自分を甘やかしている」限り、
心の奥の不信感は残り続け、まわりの世界は、いつも厳しいままです。
本当の意味で「自分を受け入れる」とは、
いつでも自分を快適に、ご機嫌にしてあげることではなく、
自分の中にあるものを、あるがまま認めることです。
たとえ、それが、不快な感情であったとしても、
「ある」ことを認めて、受け入れることで、はじめて、
「感情の責任をとる」ことができ、結果として、見える世界も変わってきます。
どんな感情も、どんな自分の姿も、自分自身が許しているからこそ、
まわりの人にも、やさしく接することができる。そして、
義務感や罪悪感ではなく、
本心から「何かをしてあげたい」と思えるからこそ、
人の幸せを素直に喜べる自分でいられる。
自分の中にある「気持ち」「心が求めていること」「欲求」を、
大切に認め、すべてを受けとめることで、
自分自身への信頼感が生まれ、まわりと調和することができ、
「人生の流れ」は良くなっていくのです。
自分の感情は、自分のためにある
人は「感情を表現すること」で、まわりとの関係をつくり、
自分の存在を確認しています。
感情は、自分の内面と外側の世界とを繋ぐ存在なのです。
「うれしい気持ち」は、誰かに伝えたくなるものですし、
「不安」や「苦しみ」「嫌だという感情」を聴いてもらうことは、
緊張を緩めたり、心のバランスを保つ助けにもなってくれます。
ただ、感情を表現した結果として生まれたものを、
最後に受けとめるのは、いつでも、自分自身です。
他人の感情の責任はとれない以上、
気持ちを表現したとき、
相手が「どう受け取るのか」「どう思うのか」までは、決められません。
だから、人の言葉や態度に傷つくことがあっても、
それは避けられないのです。
気持ちが届かなかったとき、
未消化なときにこそ、
大切なこと。それは、
「思うように伝わらなかった感情」を「自分がどうするのか」です。
すべての感情は、
生きるための力「生命力の源」であり、
それは、
悲しみや怒りといった「負の感情」も同じです。
受け入れ難い感情も、
不快な気持ちも、
あってはならないものとして、遠ざけようとするのではなく、
自分の内側に「ある」ものとして向き合い、
自分自身が、
感情が生まれた、本当の意味を知る。
表に出して、認識できる形になり、相手に届いて、何かを成し遂げた、
その感情の根っこにあるものを、
あらためて、受けとめることができたとき、
自分が「どうしたいのか」「何を伝えたいのか」「何を望んでいるのか」に、
気づくことができます。
感情を受けとめ、理解し、受容することで、人は生きる力を得られるのです。
誰かの存在によって傷ついた「心の痛み」であっても、大切な自分の感情です。
「届けたい」と思った気持ち。そして、
その奥にある「想い」を、本当に「わかってあげられる」のは自分だけです。
無自覚にしている「良い・悪い」の判断を手放し、
良いことも、悪いことも、自分の「感情の責任を自分が持つこと」で、
「体験したこと」の一つひとつの積み重ねが、
より深く「自分を知ること」に繋がっていきます。
どんな感情も、「自分のもの」として受けとめ、深く理解していくことで、
心からの望み「本心」を、
「これから先」も、見失わずに済むのです。
感情は「本当の望み」を知る、道しるべ
外側の世界で起こる「結果」に左右されずに、
「何を求めているのか」心からの願いを見失わないためには、
望みが満たされたとき、自分は「どんな気持ちでいるのか」
内側にある感覚に繋がっている必要があります。
願いを叶えたときに得られる感情の答えは、すでに、自分の中に「ある」のです。
心の奥では、答えを知っているからこそ、
手にしたものが「心から求めていたものではない」と、
どうしても、違和感を感じてしまうし、
自分が「これから、どこへ向かえばいいのか」についても、
「もう、わかっている」はずなのです。
不安にかられて、うまくいきそうな方法や、
モノ(家が欲しい、車が欲しい、お金があれば)にばかり、心を奪われるとき、
不足しているもの「足りない、ない」に意識が向いていると言えます。
「自分にとっての幸せは何か」を、自分自身の「感情・感覚」でつかみ、
選択の軸にしていないと、
本当に求めているもの「目的」と、
目的を達成するための「手段」「方法」が入れ替わりやすくなります。
「嫌なこと」から逃れるために、
「どうすればいいのか」を探し続けて、
「方法」にばかり固執してしまうと、
うまくいかないと苦しくなり、たとえ良い結果になっても、安心感は得られません。
その方法、やり方を通じて「何を心から望んでいるのか」
「どんな感情を味わっていると、心から満たされるのか」
「本当は、どうしたいのか」
素直な「自分らしい欲求」こそが、本当に繋がるべき「自分の軸」なのです。
心が「感じていること」を受け入れて、自分の中心と繋がると、
まわりとの壁は必要なくなり、
自然に、まわりの人とも、社会とも、繋がれるようになります。
無理な我慢も、罪悪感もなく、自分を満たせれば、
自分への信頼が生まれ、
安心して、まわりも信じることができる。
「生きている証」として湧き上がる「感情」が、
自分自身に、ずっと教えてくれていた
「心と身体は、どのように自分を満たしたいのか」に気づき、
素直な気持ちを軸に行動して、
この世界に「受け入れられている」「満たしてもらっている」と、心から思えたとき、
人は、自然に、自分が受け取った幸せを、
自分のいる世界と「分かち合いたい」と願うようになっていきます。
感情や気持ちを丁寧に扱い、掘り下げ、自分の「本当の望みを知る」のは、
自分を大切にするため、
自分を好きになるため、そして、
「大切な人」を「自分と同じように」幸せにする
そんな、
心の深いところで幸せを感じる姿が、身近な人から広がっていくことで、
自分も、まわりにいてくれる人も、一緒に満たされるためなのです。
素直な気持ち「本音」は、人生の流れを良くしてくれる
気持ちを大切にするために、
小さな望みも、自分が叶えてあげる。
無視したり、軽く扱ったりしない。
自分の感情を大切にする姿勢が、自分への信頼感になる。
「我慢しない」で、
「自分を満たす」ことで、
「感謝の気持ち」は自然に生まれる。
自分に優しくすることで、
人にも優しくできる。
感情は、抑えても、無視しても、
いつか、どこかで噴出してしまうもの。
弱いところ、制御できないところから、どうしても漏れる。
それは「怒り」として、それは「甘え」として。
「ある」もの「ある」のだから。
たとえ心の痛みであっても、大切な感情。
あまり感じたくない嫌な気持ちも、
心の痛みも、
できれば隠しておきたい感情も、
大切な自分の一部。
何ひとつ欠けても、今の自分の存在はない。
表に出せない感情、
人に知られたくない気持ちを、
「ない」ことにしようとするから、
苦しくなる。
「隠し事」があると、どうしても、人は心を閉ざす。
感情にフタをすることは、
他人に見せられない自分の姿を生み出し、
まわりの目を気にして生きることになる。
我慢して、「ある」はずの自分を隠そうとするから、
制限が生まれ、窮屈になり、
人生の流れまで悪くなってしまう。
「ある」のだから、ただ「ある」と受け入れてあげる。
でも、感情に飲み込まれるのではなく、
その奥にある想いまで、ちゃんと、たどり着く。
思っていること、
言っていること、
そして、行動が一致していると楽になる。
自分の感覚を信じられると、自分との絆が深まる。
自分と繋がっているからこそ、まわりとも繋がれる。
感情、気持ちは、
「何を求めているのか」
「何が自分を満たしてくれるのか」
自分を知るための、大切な道しるべ。
たとえ何が起こっても、どんな結果になっても、
その瞬間に、
自分は「どう感じたのか」「どう思ったのか」
「気持ち」を、丁寧に受けとめてあげると、
その先には、いつでも、
自分は「どうしたいのか」
本当の望み、自分の中の「答え」がある。