なぜ、生きづらいのか

なぜ、生きづらいのか、ありのままの自分を見失う理由

【統合】 自分を受け入れる  

嫌いな自分を変えるのではなく、
心の奥の「本心」をわかってあげる。
なぜ、生きづらいのか、ありのままの自分を見失う理由


「変わりたい」「成長したい」
「乗り越えたい」と頑張っても、
どうしても行き詰まるとき、

心の奥には
「今の自分ではダメだ」という
自己否定があります。


どうしても受け入れられない
「見たくない自分の姿」であっても、
すべてを否定するのではなく、

心の奥に抱えている本心を
「わかってあげる」と

そこには自分の本質、
本来の姿に繋がる
「大切な想い」があります。




なぜ、生きづらいのか

「生きづらい」「生きている意味がわからない」
「自分が嫌い」「自分に価値がない」と思ってしまう
「もう、すべてが嫌だ」と絶望すら感じる・・・
つらい状況から、はやく抜け出したいはずなのに、
もがけばもがくほど、苦しくなってしまうのなら、

そんな「生きづらさ」を生み出す感情が、
自分の中に「ある」ことを、受け入れてみることで、
見えてくるものがあります。


苦しくて、飲み込まれてしまいそうな「負の感情」であっても、
「思ってはいけないこと」として、否定して、抑えようとすると、
かえって苦しくなってしまいます。

身体に感じる痛みや違和感が、ケガの場所を教えてくれたり、
治療や静養を求めているサインであるように

心の痛みや苦しさであっても、
何らかの意味があって、自分に必要だから「ある」はずです。

「ある」ものを「ない」ことにしようとするから、苦しくなり、
「ある」のに否定するから、つらくなってしまうのです。


「見たくない」気持ちも、存在すべてを否定しないで、
「ある」ものは「ある」として受け入れ、
気持ちの奥底まで理解しようとしてみる。

自分を苦しめる感情「生きづらさ」は、
自分の存在や、生きること自体が嫌なのではなく、
「今の生き方を、これ以上続けたくない」という気持ち。そして、
「自分を生きたい」という願いがあるからこそ、感じるはずです。


「生きづらい」という気持ちが
「自分の人生を生きていないこと」を、自分に伝えてくれるのなら、
その気持ちを抑え込んだり、無視するのではなく、
そんな感情があることを、まず「自分が受け入れてあげること」が、
結果的に、生きづらさから抜け出すことに繋がるのです。



生きづらくなるは、自分が自分を否定しているから

人は「自分へのひとり言」を頭の中で繰り返しているものです。

知らず知らずの間に、心の中でつぶやくように、
自分に対して、言葉を投げかけているのです。

無意識に繰り返される「ひとり言」を意識して観察してみると、自分自身が、
「自分のことを、何だと思っているのか」
「自分のことを、どう扱っているのか」を、知ることができます。


「何やってるんだ」「どうするんだ」「また、やってしまった」
「ダメなやつだ」「もっと、よく考えろ」「そんなことも、できないのか」


生きづらさを感じる心理状態のとき、頭の中では、
「自分へのダメ出し」をして、自分の「したこと」を否定し、
思うようにできない自分を責める言葉が、延々と繰り返されています。

自分の行動や考え方だけでなく、「思っている」気持ちまで厳しく監視し、
それこそ、一日中見張り続けている「もう一人の自分」が居るのです。

他の誰かと比べて「もっとやらなくては」と追い込んだり、
失敗したときには「情けない」とがっかりしたり、
良くない出来事に会うたびに「きっと自分のせいだ」と思い込んだり・・・

「自分はダメだ」「自分が悪い」と自分を責めてしまうとき、
自分で自分を傷つけてしまっています。


「生きづらさ」は、自分で自分を否定しているから生まれる感情と言えるのです。



繰り返される「自分責め」が、自分の姿をつくっていく

何かが起こるたびに無意識に反応し、繰り返される頭の中の言葉、
無自覚に出てしまう心の声を、意識して観察すると見え隠れする
閉塞感、劣等感、自己嫌悪感、自分を責める言葉の数々・・・


自分で自分を否定して、責めていると、まるで、
まわりと自分の間に壁ができるかのように「自分だけの世界」がつくられ、
その壁を「殻」にして閉じこもり、外の世界と自分を隔てるようになります

「自分の殻」の中で「自分を責める言葉」が繰り返されることで、
殻に閉じこもった状態こそが自分の姿だと思い込んでいくのです。


「自分をどんな人だと思っているのか」というセルフイメージは、
実際に体験した回数よりも、頭の中で感情を味わった回数によって定着するものです。


「自分の殻」の中では、
「外の世界」と「殻の中の自分」との間の壁が「フィルター」のような存在となり、
(殻の外で)起こった出来事や、人からされたことを、
自動変換で意味付けをし、「自分の解釈」を通して世界を見ることになります。

自分を責める殻に閉じこもってしまうと、何が起きても
「自分が悪い」「自分のせいだ」と思い込み続けてしまうのです。


実際が何が起きたのか、何をされたのかは、実はあまり関係がなく、
自分の思い込みに従って物事を受け取り、
自分の解釈を「やっぱり正しい」と、強化してしまいます。

たとえ、まわりのひとが、優しくしてくれたり、親切にしてくれて、
「良いこと」が、自分の身に起きた場合でも、

バカにされているのかもしれない
自分のせいで、かえって気を使わせた
良いことなど、そう続くわけがない
○○な気がする、○○に違いない
そんな解釈が、無意識に頭の中で変換されて「解釈通りに」受け取り続けます。


解釈の仕方(フィルターを通した捉え方)が変わらないと、
どんな事実でも「思い込みを通した事実」に変換されてしまうのです。



自分が自分にするように、まわりはしてくる

もし、まわりの誰かから、
自分が責められたように感じるのであれば、その誰かの言葉は、
自分自身が自分を責める言葉と同じはずです。

自分が自分をどう扱っているか、それは、
そのまま「まわりの人たちの自分への接し方」になるのです。

自分を粗末に扱っていると、まわりもそうしてきます。
それが自分に相応しいと思っているように、まわりも同じことをしてくるのです。


誰かから、不愉快な気持ちにさせられたときも、
「自分に落ち度があるかもしれない」「そんな風にされても仕方がない」と
心のどこかで認めてしまい「自分の存在の自信のなさ」が反応してしまって、
無意識に「不愉快な扱い」を受け入れてしまいます。

「嫌なこと」は「受け取らない」たったそれだけの
自分を守る言葉すら、うまく出てこなくり、
次第に「どうしたらいいのか」が、わからなくなってしまうのです。


たとえ、人に何をされたとしても、
相手が「何を思ってそうしたのか」は、想像するしかありません。

自分の殻の中で、想像(イメージ)に振り回されている限り、
まわりの現実とズレて、物事を見ています。

本当ではないもの「想像」に、自分を無理に当てはめて行動するから、
空回りしてしまい、苦しくなっていくのです。

それぐらい「自分の殻」は自分の価値観と一体化して、意識しにくいのです。


生きづらさからに抜け出すために、意識するべきなのは、
まわりの出来事や、相手ではなく、
自分が「どう解釈しているのか」という「思い込み」の方なのです。



「自分を責める言葉」は、いつ生まれたのか

自分で自分の姿は、見ることができません。

自分の存在を認識するためには、自分を見てくれる他者が必要になります。

当たり前のように信じている自分の姿「自分像」は、
「まわりの人から、どう言われているのか」
「これまで、どんな人間として扱われたのか」といった、
まわりの人の自分に対する反応をもとに、つくられています。

そして、自分の扱い方の土台となる「はじまりの記憶」となるのは、
生まれ育った家庭環境であり、多くの場合「両親との関係」となります。

幼い頃に、それこそ、もの心ついたときには、
生まれ育った環境の中で、両親とのやり取りを通じて、
何かを思い込み、フィルターとなる壁をつくって、
殻に閉じこもった姿こそが自分だと思い込みはじめているのです。



自分の存在価値を決めるもの

両親や身近な人が、自分のことを「どう扱ったのか」だけでなく、
そのことを、自分自身が心の深いところで「どう受け取ったのか」が、
その後、「自分の価値をどう思い込んでいるのか」に大きく影響します。

「どんな環境だったのか」「何をされたのか」は、受け身ですが、
「どう感じたのか」は、それが幼い頃の記憶であっても自分が主体なのです。


生まれ育った環境の中で、自分は自分を何だと思ってしまったのか。


無意識に刻んだ「記憶」は、自分の「存在価値」と結びつきます。

私たちは、自分の行動、または自分の存在そのものが、
まわりの人、あなたが幸せにしたいと願っている人を幸せにしているかを
絶えず感じながら生きています。

「まわりの人が幸せだと思えない」
そう感じてしまったときの悲しみや、怒りの原因を、
まわりの環境や、他人のせいだけにできず、
否定的な感情の矛先を、自分に向けたときに
私たちは自分のことを、ふがいないと思い、罪悪感や無価値感を感じてしまいます。


「おとうさんと、おかあさんと、わたし」という、
小さく純粋な世界での「家族の中の自分」を通して、

気がつかないうちに「思い込んだこと」を、すべての始まりとして、
それが正しいことを証明する出来事ばかりに目を向け、拾い集め、
自分にとって「当たり前の世界」がつくられていくのです。



自分の中の「嫌いな自分」

子どもは、親に「されたこと」を「すべて」受け取りたいものです。

幼い世界の「大切なすべて」の中には、
「なぜ、自分が嫌いなのか」自分を責める理由も含まれます。


おかあさんが大変そう、笑顔でいてくれない、
かわいそう
おとうさんは家にいない、いつも不機嫌、
つらそう
両親の仲が悪い、家の雰囲気が暗い、
家族と居ると息苦しい

気がつくと「当たり前」に目の前にあるのに、
「本心は」見たくないと思っている光景があって、
その理由を自分の中に背負い込んだとしたら、
自分を大切な存在だとは、どうしても思えないはずです。

「自分のせいだ」
「いけないことをしたからだ」
「ボクが悪い子だから」
「ワタシができないからダメなんだ」
自分を責める言葉が、罪悪感や無力感とともに生まれます。


幼く、何も知らない、何も出来ない、小さな存在が、
唯一「自分で、どうにかできること」である「自分の存在すべて」を使って、
目の前の出来事を受け止めるためには、

「自分が悪い」「自分のせい」と思い込み、
自分を生贄のように差し出して「自分を責める」しかなかないはずです。


両親からの愛情を受け取るために、
家族の一員であり続けるために、
大切な人に愛されるために、
大切な人から嫌われないために、


自分の存在を歪ませてでも、自分よりも大切な存在を守るために、
何かを思い込み、何かを決める。

その純粋な思い込みが「自分が自分をどう思っているのか」という
自分の存在価値、セルフイメージとなっていくのです。


もし、どうしても自分を責めてしまうのなら、
そこには、
「ありのままの自分の存在」が「自分の大切な人」を幸せにしていないという想い、
そんな、悲しみの感情「罪悪感」が根底にあります。


また、そんな自分に対して、
「このままではいけない」「何とかしなくてはいけない」という気持ちを、
あまりに強く持ちすぎると、
もともと存在したはずの「ありのままの素直な自分」は、
その存在すら否定されることになります。


どこにも居場所がない自分は、存在を隠さなくてはいけなくなり、
生きづらさを生み出す「自分を歪めた生き方」を、自分に強いることになるのです。



自分と世界との関係

この世界は「自分にとってどんな場所なのか」「自分に何をしてくるのか」も、
「家族と自分」という小さな世界から始まり、成長とともに、
「世界(社会)と自分との関係」に広がっていきます。

両親との関係の中での
「自分の扱かわれかた」「言われてきたこと」は、そのまま、
社会の世界で、
「自分はどんな存在なのか」「まわりは自分に何をするのか」に変わるのです。


一番身近で、大切な存在である「親の考え方や価値観」は、
無意識に基準となり、そのまま受け継いだり、
逆に「あんな考えは嫌だ」「親のようにはならない」と反発したりしながら、
自分の価値観や信念となる「思い込み」となり、強く影響します。


いつでも自分を厳しく見張り、まるでコントロールするかのように、
頭の奥で、ずっと聞こえていた言葉は、

「自分の声」ではなく、「親の声」と言えます。

ただ、その声が「言っていることの内容」は、
無意識の思い込みによって、自分自身がつくりだしたもの
なのです。



幼い頃につくられた、自分が「当たり前」だと信じている世界観、ルールは、
成長とともに、自分と世界の間でも「真実」に独自の解釈をする
自分の殻、壁(フィルター)となり、目の前の出来事や人を判断し続けます。


自分が愛されるべき存在として、
世界は助けてくれる、応援してくれる、守ってくれる、理解してくれる場所なのか

自分がまるで、罪びとであるかのように、
罪悪感や無価値感を背負って、不自由に生きることを強いられるのか


生まれ育った環境、家族との関係の中でつくられた、
自分の扱われ方や、当然のように背負う役割は、
気がつかないうちに自分を取り巻く殻となり、ずっとあり続け、
それが「自分の生き方」だと、疑うことなく信じているのです。



「ここに居てはいけない」自分の姿

両親から嫌われるような自分、家族として受け入れてもらえない自分、
見たくない「ここに存在してはいけない自分」は、自分の存在を根底から脅かします。

自分を否定する気持ちが生まれ、
隠さなくてはいけない自分の姿は邪魔になり、
不都合な自分は変えなくてはいけなくなります。
成長したり、乗り越えたり、人から評価される「何か」が必要になるのです。


ですが、自分の居場所を守るために
何かを達成したり、何かができるようになろうと
「今の自分に足らない何か」を
「自分の外」から見つけ、つけ足そうとしている限り

もし、せっかく積み上げたものがなくなったら、
通用しなくなったら、否定されたら、簡単に「終わってしまう」
そんな不安や怖れは、心の奥に残り続けます。


最初に埋めようとしたはずの欠乏感と罪悪感は、いつまでも埋まらないのです。


不都合な自分から、目をそらそうとすればするほど、
何から逃げようとしているのか正体すらわからなくなり、
不安や恐怖だけが大きくなってしまいます。

本当の意味での自信「自分がここに居てもいい」という安心感は、
ずっと欠けたままになってしまうのです。



自分を受け入れるために

どんな自分でも、自分がその存在を許してあげる。

なぜ、自分を否定して責める考え方が生まれたのか。
「自分を認めたくない理由」「どこが、ダメなのか」

罪悪感の理由は自分の中にあります。

「自己否定」や「自分責めの言葉」に気づいたのに、やめらない。
やめられると思えない、変えていくこと自体に抵抗を感じてしまうのなら、
そこにある「自分が嫌いな理由」を深く見ていく必要があります。

そこには
「ダメでない自分」なら叶えられたはずの「願い」「世界観」があります。


「自分という存在が居る」それだけで叶えられたはずの
「みんなにしてあげたかったこと」


罪悪感、欠乏感、自分に足らない感覚を生み出した感情の根っこには、
「おとうさん」と「おかあさん」との間に「自分」が居る。
それだけで叶うはずだった世界、ずっと抱えている「想い」があるのです。

「想い」が「ある」のに、その成果が目の前に「ない」こと、
「自分が思うように」家族を幸せに「してあげていない」ことから
生まれた
「罪悪感」が、
自分責めをしてしまう、自分を許せない気持ちの根底にはあるのです。



「生きづらさ」から抜け出すために「自分責め」をやめる

決して消えることのない大切な「想い」のためにも、自分を責めることはやめる。

どんな自分も、他の誰でもない自分が許すこと、受け入れることが、
生きづらさから抜け出すためには必要です。


無意識にしていた「自分を責める言葉」に、まずは気づいていく。
そして、自分を大切にするために、やめていく。
自分を責める言葉を、自分を理解し、認めてあげて、「労う言葉」に変えていく。

「よくやっている」と、自分を労うために、
「していること」の結果だけでなく、「しようとした」気持ち、意図を汲み取って、
これまで見えていなかった側面に目を向ける。


「ない」ものに目を向けるのではなく、
「ある」ものに気づいていく。


あれができない、これが足りないと自分にないものを探している限り、
自分へのダメ出し、自分責めは終わりません。

誰かへの優しさがあるから、思うようにできない自分を悔やむし、
求めている世界があるから、その力を発揮していない自分が許せないのです。


「嫌な自分」「ダメな自分」「変えてしまいたい、見たくない自分の姿」を受け入れ、
その奥にある意図「なぜ、そう思うのか」を掘り下げていくと、
大切な「想い」である、みんなに「してあげたいこと」が見つかります。


生きづらさの原因だと思い込んでいた「受け入れ難い自分」も、根っこでは、
みんなを幸せにしたいと願っているのです。



これまで感じていた「生きづらさの本当の理由」を知ったとき、
「生きづらさ」の根っこにあった「罪悪感」は、
心から人にしてあげたい「想い」となります。


「想い」を叶えるためにも、
どんな自分も受け入れて、
その奥の意図「本当はどうしたかったのか」をわかってあげること、

切り捨てようとしていた自分を拾い集めていくと、その先に、
「ここが自分が求める場所だった」と素直に思える
「まだ見ぬ、心から行きたかった場所」に、たどり着くことができる
のです。





自分を責めるのも、認めてあげるのも、自分


認められる自分になってから動こうとしても
その時は、
なかなか来ない。

どんな自分も好きになる。
そのための最初の一歩が、とにかく労うこと。


「思い通りにならなかった」自分に、
ダメ出しをするのをやめて、
「それをしようとした」意図、
根っこの気持ちをわかってあげること

生きづらいのは、
自分を責めてしまうのは、

心の奥に大切にすべき想いがあるから
その想いが大切な人に届いていると思えないから
大切な人を幸せにできなかったから

受け入れたくない目の前の現実を、
知らず知らずのうちに、
「自分がここに居ることの罪悪感」として
受け取ってしまった。

生きづらさの根っこにある「想い」は、
自分の存在と一緒に、ここにあるはずだった「世界」と
繋がっている。

だから、
ダメな自分の姿を受け入れて、
その根底にある想いにたどり着いたとき、
みんなに「見せてあげたかった世界」がわかる。


生きづらさの根っこにある「罪悪感」から
「想い」を救い出す。

そのためにも、
どんな自分でも、たとえダメな自分でも、
意識して労うこと。
自分を認めてあげる「ひとり言」の数、
種類を増やしてあげること

これまで見捨ててしまっていた、
見えていなかった側面を受け入れる
自分を見守る自分の視点を優しくする。

自分が「欲しかった言葉」を
自分にかけてあげる。
それが、自分の想いを信じていること。

自分のことを信じて、労い、
根っこにある想いにたどり着くまで
理解してあげる姿勢が、
自分への信頼となる。

自分が「自分に向ける言葉」を変えていけば、
自分の居る世界は変わる。


いらない自分、ダメな自分はいない。
だから、自分を否定する必要はない。
見せたくない自分の存在を怖がらなくてもいい。

「隠しごと」があると、人は「心を閉じる」
そして「自分の殻」にこもる。

見たくない自分の存在、
人には知られたくない、恥ずかしいと思っていることがあると、
隠しごとが増え、可能性すらも狭めてしまう。

「思い切って行動できない」
「好きなものに飛び込めない」そんなときは

「うまくいかないこと」
「相手に受け入れられないこと」が怖いのではなく、

「失敗した自分」を受け入れられないから
「ダメだった」そんな自分は好きになれないから

まわりから受け入れられる自分は認める、けれど、
否定される自分は許せないとしてしまうと、

「見せてはいけない自分」「隠しておきたい自分」から、
ずっと、目を背けることになってしまう。

素の自分、ありのままの自分は、どんどん見せられなり、
隠さなくてはいけない部分は、増え続ける。
怖さや不安は消えることなく、ずっと自分についてくる。

頑張ること、向上心が、
自己評価の低さ、自己否定からきている限り
欠乏感は消えない。

生きづらくなる、人生を苦しくしている「頑張り」は、
言いかえると、
「自分以外の誰か」になろうとする頑張り。

自分を守るためにつくった殻、なのに、
殻に閉じこもっていては、
本当に欲しいものが見えなくなる。


かつての自分が
「不都合な自分を隠すためにつくった殻」から抜け出す。

「認められるため」に何かを積み上げるのではなく、
「すでに認められている人」として生きてみる。

その体験を積み重ねることで、
自分の価値をあげる必要がなくなり、怖さが薄れる。

結果として「本当にやりたいこと」を、
自然に出来るようになる。

すべての自分を好きになったら、
好きなものに飛び込むのも、
今よりずっと楽に、軽やかに行けるようになる。

どんな自分でも許されるのだから
「想い」は失わないのだから
何をしても自分の居場所はなくならないのだから

自分の中にある「想い」を受け入れたとき、
自然に「あるもの」に意識が向き、
自分を生かしてくれた、まわりの存在にも
「感謝」できるようになる。

自分と世界との関係も、自然に優しく変わってくる。


見たくない、受け入れられない自分も、
「罪悪感」と一緒に、大切な「想い」を握りしめて、
悲しくて、自分を責めている。

だから、
嫌な自分、認められない自分の想いをわかってあげる。
大切な自分の一部として、受け入れてあげる。

自分を責めて、生きづらくしていたのは自分。
今から、自分を認めることが出来るのも、自分。


どんな自分も、大切な「想い」を抱えている。

「自分のためにすることが、人のためになる」
そんな世界に繋がる想い。

心の中に、ずっと抱えている
おとうさんと、おかあさんと、わたしとの間に
「ある」はずだった世界。

自分という存在が「ここに居てもいい理由」が、
もし、あるのなら、
それは、大切な「想い」が自分の中に「ある」から。

何よりも大切な自分の中の「想い」を自分が認める。

自分が自分を認める、受け入れる。
それは自分で決めていいこと。

自分が自分に、いつでも、してあげられること。






【 Arriveの考え方と特徴 】

【 カウンセリング・メニュー 】

 【 ご予約・お問い合わせ方法 】 

【 実生活に活かすための心の知識 】


トップページお問い合わせ

サイト内の文章・画像の著作権は「座間カウンセリングスペース Arrive」にあります。
無断複製・営業利用は一切禁止いたします。
(c) 2012 座間カウンセリングスペース Arrive